【感想】コンビニの自動ドアにも気づかれず光として入りたくもなる 石井僚一
- 2014/08/26
- 00:09
コンビニの自動ドアにも気づかれず光として入りたくもなる 石井僚一
【悲しい口舌(メディア)で、うたう/えない歌】
短歌研究新人賞受賞作の石井僚一さんの連作「父親のような雨に打たれて」から一首です。
はじめて読んだときになぜかこの一首がとても気になってたびたび思い返していたんですが、もういちど〈父親の喪失〉としての連作のなかで読み直してみてわたしなりに感じたことがあったので深読みになるかもしれませんが、感想を書いてみます。
まずこのうたをくちにだして読んでみてすぐに気がつくことは、ともかく〈歌いにくい〉ということです。とくに、下の句の「光として入りたくもなる」がとても音律化しにくい。「入り《たく》も」という舌がもたげる音律のようにそれこそ、〈屈託〉がある音律です。
でもそこが大事なのではないかとおもうんです。連作のなかでむしろそこがポイントになっているのではないかと思いました。
「コンビニの自動ドアにも気づかれ」ないほど語り手は〈父親の喪失〉をとおして自らの存在感の喪失をかかえています。だから「光として入りた」い。ところがそこで「光として入」ってもだめなわけです。なぜなら語り手にとってこの悲しみが宿る〈肉体〉としての光化できない〈身体〉こそが重要だからです。連作のタイトルに「父親のような雨に打たれて」とありますが、このタイトルが重要なのは、「父親のような雨に打たれて」いる語り手の〈身体〉なのではないかと思います。父親のような雨に打たれることによってはじめて存在として受肉化された身体。
だから、読み手にもここは〈光〉のようにきもちよい音律としてスッと通り過ぎてもらってはならないのです。
定型とは、きもちよく音をとおすための、コンビニエンスな自動ドアのようなものです。でもここであえて光になりたくても身体的に・舌として屈託あるかたちにしなければならなかった。それが、おそらくは、「父親のような雨に打たれて」いる身体を通して受肉化された短歌のありかただったのではないでしょうか。
ですからこの連作においては、〈雨〉としての表象である「読点(、)」さえもが、受肉化されているようにおもうのです。
ふれてみても、つめたく、つめたい、だけ、ただ、ただ、父の、死、これ、が、これ、が、が、が、が、 石井僚一
【悲しい口舌(メディア)で、うたう/えない歌】
短歌研究新人賞受賞作の石井僚一さんの連作「父親のような雨に打たれて」から一首です。
はじめて読んだときになぜかこの一首がとても気になってたびたび思い返していたんですが、もういちど〈父親の喪失〉としての連作のなかで読み直してみてわたしなりに感じたことがあったので深読みになるかもしれませんが、感想を書いてみます。
まずこのうたをくちにだして読んでみてすぐに気がつくことは、ともかく〈歌いにくい〉ということです。とくに、下の句の「光として入りたくもなる」がとても音律化しにくい。「入り《たく》も」という舌がもたげる音律のようにそれこそ、〈屈託〉がある音律です。
でもそこが大事なのではないかとおもうんです。連作のなかでむしろそこがポイントになっているのではないかと思いました。
「コンビニの自動ドアにも気づかれ」ないほど語り手は〈父親の喪失〉をとおして自らの存在感の喪失をかかえています。だから「光として入りた」い。ところがそこで「光として入」ってもだめなわけです。なぜなら語り手にとってこの悲しみが宿る〈肉体〉としての光化できない〈身体〉こそが重要だからです。連作のタイトルに「父親のような雨に打たれて」とありますが、このタイトルが重要なのは、「父親のような雨に打たれて」いる語り手の〈身体〉なのではないかと思います。父親のような雨に打たれることによってはじめて存在として受肉化された身体。
だから、読み手にもここは〈光〉のようにきもちよい音律としてスッと通り過ぎてもらってはならないのです。
定型とは、きもちよく音をとおすための、コンビニエンスな自動ドアのようなものです。でもここであえて光になりたくても身体的に・舌として屈託あるかたちにしなければならなかった。それが、おそらくは、「父親のような雨に打たれて」いる身体を通して受肉化された短歌のありかただったのではないでしょうか。
ですからこの連作においては、〈雨〉としての表象である「読点(、)」さえもが、受肉化されているようにおもうのです。
ふれてみても、つめたく、つめたい、だけ、ただ、ただ、父の、死、これ、が、これ、が、が、が、が、 石井僚一
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