【感想】胸の高さの泥水で老人が死ぬ 選挙区はさいとう斎藤 斉藤斎藤
- 2014/08/27
- 13:43
胸の高さの泥水で老人が死ぬ 選挙区はさいとう斎藤 斉藤斎藤
【名前のわたし】
斉藤さんの歌集のタイトル『渡辺のわたし』が象徴的だとおもうんですが、斉藤さんの短歌のテーマに〈固有名〉と〈わたし〉がどういうふうに出会い・すれちがうのかという〈固有名〉と〈わたし〉をめぐる折衝があるようにおもうんです。
「渡辺のわたし」ということばについて考えてみるとわかると思うんですが、〈わたし〉が〈渡辺〉である限りにおいて、〈わたし〉は〈渡辺〉として〈私性〉を剥奪されざるをえませんが、しかし〈渡辺〉の〈わたし〉であることにおいて、そうした剥奪された固有名においてもどう〈わたし〉は〈わたし〉たりえる/ないのかという問いがあるように思うんです。
これは「斉藤斎藤」という名前にも特徴的だと思うんですが、《あえて》名字が即座に続けられることによって自らの名前を「斉藤/斎藤」とパロディ化してしまうという自ら名乗ることによって名前そのものが解体してしまう自己差異化の働きがここにはみられるとおもいます。少しだけズレることによって「斉藤/斎藤」という名前は差異を生成しつづける〈自己言及〉的なパロディになっています。
〈わたし〉の名前を名乗るのはつねにこの〈わたし〉であり、〈わたし〉以外の人間は名乗ることができないという点において、〈名前〉というテクストほど〈私性〉の強いテクストはないと思うんですが(もしかしたら〈名前〉というのは歴史上いちばん強度をほこる〈短詩〉かもしれません)、ところが「斉藤斎藤」という名前は名乗ることがすなわち名乗ることの解体につながっています。〈私性〉は宙づりにされ、名乗った者だけでなく、名乗られた者も巻き込んで、〈わたし〉をめぐる問いが浮上してきます。
いちばん上に引用した斉藤さんの短歌において、「選挙区はさいとう斎藤」となっていますが、これもひとつの〈固有名〉と〈わたし〉の流通をめぐる問いだとおもいます。選挙区の選挙ポスターにおける「名前」とはだれにでも・覚えやすく〈流通〉することをいちばんの目的としていますが、しかしだれにでも・覚えやすく・選んでもらいやすくといった事態はそもそもの表層的な記憶としての選択ではなく〈名前〉にとらわれない〈このわたし〉を選択して選んでほしいという選挙そのものの〈出来事性〉の倒錯的な裏返しとなっています。〈私性〉よりもわかりやすい名前を流通させることの表記的〈詩性〉を優先させること。ここには本来的な意味での固有性=固有名の剥奪があるように思います。
そしてそうした固有性=固有名の〈場〉において、上の句の「胸の高さの泥水で老人が死ぬ」という〈死〉が問われているのがこの歌なのではないかとおもうのです。
「胸の高さの泥水」で「死ぬ」という〈固有〉の事態としての〈死〉、しかしその〈固有〉をめぐる〈死〉が「老人」という〈非-固有名〉によって〈普遍〉的問いのレベルにひきあげられています。そしてその〈固有〉の〈死〉と、〈非-固有名〉との折衝の〈場〉として「さいとう斎藤」という〈私性〉をできるだけ掩蔽させた〈公・性〉としての〈場〉が浮上してくるのです。
さいしょにいったことを繰り返すと、これは〈固有名〉と〈わたし〉をめぐる問いが、〈わたし〉だけの問題ではなく、〈わたし〉以外の〈だれ〉から、どのような〈場〉でつきつけられるのかという、〈非-わたし〉の〈場〉をめぐる問題でもあるのだというふうにいえるとおもいます。
〈私性〉の問題は、じつは、〈私性〉の彼岸にあるのではないかという話です。
売り物のベッドにすわる 「生きることは愛すること」と瀬戸内寂聴 斉藤斎藤
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