【感想】۵ 石原ユキオ
- 2014/08/28
- 00:20
۵ 石原ユキオ
【わたしはもうしんでいる】
石原ユキオさんの「HAIKU OF THE DEAD」からゾンビ化した語り手による一句です。
語り手がだんだんとゾンビ化しつつも、それでも俳句を詠みつづけるという一連の流れがあるんですが、この「۵」の前の句が、
食マレヌ
です。喰われちゃってます。
「 いっぱ いち ゅ する とく ちび なくな る ね」と文章がこの句についているんですが、一連を読んでいてわかるのは、語り手がゾンビ化しつつも〈愛〉をさぐりつづけていたということです。
ゾンビにとっての〈愛〉とは、想像界的な性器結合でも、肛門愛的な挿入=交通としての快楽でもなく、すべてが〈口唇欲〉に集中された〈現実的(リアル)〉で〈非交通〉的な〈相互浸蝕=言語浸蝕〉です。〈愛〉とは、〈食べる/食べられる〉ことであり、みずからの身体が実質的に損壊していくことであり、身体の喪失は、〈くちびる〉=発話の喪失につながっていきます。
すなわち、ゾンビ化しても〈俳句〉に対する口唇的愛情をもちつづけていた語り手は(〈俳句〉とは〈詠む〉という営みにおいてそのすべてが口唇欲です)、その〈愛〉によって〈俳句〉を奪われていきます。
さいごにゾンビ化した身体さえもおそらくはすべて食べられ/奪われて、さいごに残った句=発話=身体のすべてをひきうけ、表象しているのがおそらくは「۵」です。
ペルシア文字で「5」という意味をもちますが、それはおそらく関係なく、ここではむしろこの「۵」がもつ、形象と非文字的な文字メディアであることが大切なのではないかとおもいます。
「۵」は最後に語り手の身体が食い尽くされてのちもまだ残っていた〈舌〉のようなかたちでもあり、また、なんらかの発話をしようとしつつも意味化できなかったことばのようでもあります。
つまり、このたった「۵」という一文字の句の一点において、ゾンビ化し消尽した語り手は、身体と、句と、ことばが、重ね合わされ、同一化しているのです。
そしてその同一化した果ての「۵」こそが、語り手が〈ゾンビ〉というメディアを介してついにはさぐりあてた〈愛〉だったのではないかとおもうのです。
タイトルは、「HAIKU OF THE DEAD」でした。力点は、あくまで「HAIKU」にあります。死んで愛して愛されて喰われて消尽してそれでもなお「HAIKU」は顕現しうるのか、にあるようにおもいます。
舌一枚で、句を詠えるのかどうか。そしてそこまでして俳句を詠もうとしたときに、その舌そのものが俳句の表象になるのではないか、と。
愛は、いつも遅れてやってきますが、俳句もまた、〈遅延〉というかたちをとって〈意味〉を発動させる表現メディアであるようにおもうのです。ですから、俳句はつねに〈意味〉を逃れつつも、そのすこしさきで〈意味〉に出会おうとしているのです。未然形の未来形として。
そして、それは、ゾンビという人間の(生/死の)遅延した身体でもってしか行き着けない形であったのではないかと思います。
〈口〉からはじまり〈口〉におわること。〈口〉以外のメディアは発動させないこと。
そこからHAIKUのリミットに到達し、尽きること。
邂逅ヤ共ニ啜レルアキレス腱 石原ユキオ
【わたしはもうしんでいる】
石原ユキオさんの「HAIKU OF THE DEAD」からゾンビ化した語り手による一句です。
語り手がだんだんとゾンビ化しつつも、それでも俳句を詠みつづけるという一連の流れがあるんですが、この「۵」の前の句が、
食マレヌ
です。喰われちゃってます。
「 いっぱ いち ゅ する とく ちび なくな る ね」と文章がこの句についているんですが、一連を読んでいてわかるのは、語り手がゾンビ化しつつも〈愛〉をさぐりつづけていたということです。
ゾンビにとっての〈愛〉とは、想像界的な性器結合でも、肛門愛的な挿入=交通としての快楽でもなく、すべてが〈口唇欲〉に集中された〈現実的(リアル)〉で〈非交通〉的な〈相互浸蝕=言語浸蝕〉です。〈愛〉とは、〈食べる/食べられる〉ことであり、みずからの身体が実質的に損壊していくことであり、身体の喪失は、〈くちびる〉=発話の喪失につながっていきます。
すなわち、ゾンビ化しても〈俳句〉に対する口唇的愛情をもちつづけていた語り手は(〈俳句〉とは〈詠む〉という営みにおいてそのすべてが口唇欲です)、その〈愛〉によって〈俳句〉を奪われていきます。
さいごにゾンビ化した身体さえもおそらくはすべて食べられ/奪われて、さいごに残った句=発話=身体のすべてをひきうけ、表象しているのがおそらくは「۵」です。
ペルシア文字で「5」という意味をもちますが、それはおそらく関係なく、ここではむしろこの「۵」がもつ、形象と非文字的な文字メディアであることが大切なのではないかとおもいます。
「۵」は最後に語り手の身体が食い尽くされてのちもまだ残っていた〈舌〉のようなかたちでもあり、また、なんらかの発話をしようとしつつも意味化できなかったことばのようでもあります。
つまり、このたった「۵」という一文字の句の一点において、ゾンビ化し消尽した語り手は、身体と、句と、ことばが、重ね合わされ、同一化しているのです。
そしてその同一化した果ての「۵」こそが、語り手が〈ゾンビ〉というメディアを介してついにはさぐりあてた〈愛〉だったのではないかとおもうのです。
タイトルは、「HAIKU OF THE DEAD」でした。力点は、あくまで「HAIKU」にあります。死んで愛して愛されて喰われて消尽してそれでもなお「HAIKU」は顕現しうるのか、にあるようにおもいます。
舌一枚で、句を詠えるのかどうか。そしてそこまでして俳句を詠もうとしたときに、その舌そのものが俳句の表象になるのではないか、と。
愛は、いつも遅れてやってきますが、俳句もまた、〈遅延〉というかたちをとって〈意味〉を発動させる表現メディアであるようにおもうのです。ですから、俳句はつねに〈意味〉を逃れつつも、そのすこしさきで〈意味〉に出会おうとしているのです。未然形の未来形として。
そして、それは、ゾンビという人間の(生/死の)遅延した身体でもってしか行き着けない形であったのではないかと思います。
〈口〉からはじまり〈口〉におわること。〈口〉以外のメディアは発動させないこと。
そこからHAIKUのリミットに到達し、尽きること。
邂逅ヤ共ニ啜レルアキレス腱 石原ユキオ
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