【あとがき】ジジェク『身体なき器官』のあとがき
- 2014/08/27
- 12:00
この「あとがき」を閉じるに際して、次の一点だけは強調しておきたい。それは、本書が《へーゲルを唯一の例外として》偉大な哲学者の大方の「おかまを掘る」ことで「怪物」を産みだすといったドゥルーズ自身の〈哲学する〉行為をまさにドゥルーズ自身の肛門に向けて行使するという、ドゥルーズ的意味での「実験」のジジェクによる反覆である、という点である。こうした「実験」あるいは介入に込められた意図を理解することなく、哲学を受験参考書的(パパ-ママ・ポジション)に「理解」することが哲学することだと考える健全な善意の人びと(の禁欲)は、まさに正常位(パパ-ママ・ポジション)に支配される者に相応しいあり方で、本書を即時的に──すなわち、状況的行為に開くことなく──誤解(-正解)するだろうか、またそうした行為を私は、ジジェクに倣って、哲学(するという行為)の去勢と呼んでいるが、ジジェクはこうした去勢をこそ象徴秩序の再建と批判し、そうした災厄をもたらし他ない善意に現実的なことの現実を対置することで、そこでの「準原因(仮構された大義)」を探り出そうとしている。
(……)
ジジェクは、こうした「実験」こそ、意図された〈誤解-邂逅〉という古典のもっとも真摯で忠実な読み方に他ならないと、珍しくも、読解対象へのみずからの応接方法──対話と邂逅との違い──をことさらに論じ、論争から逃亡するドゥルーズ(/ガタリ派)を挑発しているが、それは、読解対象(ドゥルーズ)を「後ろから掴まえ」、それによってドゥルーズのいわゆる「怪物」をいかに横領(我有)するかに腐心するジジェクに他ならない。
長原豊「訳者あとがき」『身体なき器官』
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ジジェクは、こうした「実験」こそ、意図された〈誤解-邂逅〉という古典のもっとも真摯で忠実な読み方に他ならないと、珍しくも、読解対象へのみずからの応接方法──対話と邂逅との違い──をことさらに論じ、論争から逃亡するドゥルーズ(/ガタリ派)を挑発しているが、それは、読解対象(ドゥルーズ)を「後ろから掴まえ」、それによってドゥルーズのいわゆる「怪物」をいかに横領(我有)するかに腐心するジジェクに他ならない。
長原豊「訳者あとがき」『身体なき器官』
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