【感想】永井祐さんの「日本の中でたのしく暮らす」語り手はなぜ「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れ」たのか?
- 2014/08/28
- 12:31
高いところ・広いところで歩いてる僕の体は後者を選ぶ 永井祐
建物がある方ない方 動いてる僕の頭が前者を選ぶ 〃
整然と建物のある広いところ 僕全体がそっちを選ぶ 〃
【one of 僕(たち)】
永井祐さんの短歌のおもしろさのひとつに「僕」による〈「僕」の疎外〉というものがあるように思うんです。
「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」もそうなんですが、〈僕〉のこととして〈語る〉ことによってはじめて〈他人事〉感がでてくるということばを経由した奇妙な〈僕〉をめぐる〈僕の疎外〉があるのではないかとおもうんです。
それは発話するまでは〈疎外〉はされていないのだけれど、発話してことばにしたとたんにはじめて自分が自分から疎外されるという不思議な疎外です。
たとえばうえにあげた短歌は「僕」が語っている短歌ですが、その短歌のなかで「僕」は「僕」の主体を「僕の体」「僕の頭」「僕全体」と〈僕〉という力点をあえてずらすかたちで主体化しています。この短歌を語っているのは「僕」なんだけれども、その言表のなかでなにかを選択し行動しているのは「one of 僕」であるという〈僕〉の疎外感です。
そもそも『日本の中でたのしく暮らす』っていう歌集のタイトルもすごく不思議なタイトルだなあと思っていたんですが、このタイトルのふしぎさは上にあげた短歌とどうも通底しているようにおもうんですね。
このタイトルのふしぎさって、「たのしく暮らす」に力点がおかれているというよりは、「日本の中で」をあえて言表化し、そこに力点をおいてしまっているふしぎさなのではないかとおもうんです。つまり、上の短歌がすべて結語において「選」んでしたように、歌集のタイトルにも「日本の中」と「日本の中・ではない場所」の二項対立が無意識にかたちづくられ、そのなかから「日本のなかで」が選びとられています。ところがそれによって選び取られてしまうのは、むしろ「日本の中で・じゃない場所ではたのしく暮らせないのか」というやはり言表したがために発覚してしまう〈僕〉の疎外ではないかとおもうんです。
日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる 永井祐
が、歌集『日本の中でたのしく暮らす』の表題歌なんですが、なぜ語り手が「道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れ」ているのかといえば、おそらく語り手がみずからがみずからを疎外したことにきづいて、それら〈選り分け〉の言表をもういちどカオスにさしむけるために「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」ことによって〈補完=補償〉したのではないか。ところがその行為によってかえってまた語り手自身が語り手によって〈疎外〉されている状況が浮き彫りにされているのではないかとおもうんです。
ちなみに昨日、斉藤斎藤さんの短歌における固有名とわたしをめぐるテーマについて感想を書いてみたんですが、永井さんの短歌の場合、斉藤さんと対照的で、あえて固有名を打ち出さず(「高いところ・広いところ」「日本の中で」「僕の頭」「建物がある方ない方」)、むしろ固有名の場所における〈わたし〉をめぐるテーマがうちだされているのではないかと思います。
固有名を回避したその場所とは、つねに〈わたし〉が〈わたし〉の安定を得られず、むしろ〈わたし〉によって疎外される場所です。
「青い電車」といったやはり固有名を回避したものに、はねとばされる〈疎外〉されてしまうような、斉藤さんとはちがったかたちのもうひとつの〈わたしのリアル〉なのではないかとおもいます。
あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる 永井祐
建物がある方ない方 動いてる僕の頭が前者を選ぶ 〃
整然と建物のある広いところ 僕全体がそっちを選ぶ 〃
【one of 僕(たち)】
永井祐さんの短歌のおもしろさのひとつに「僕」による〈「僕」の疎外〉というものがあるように思うんです。
「あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな」もそうなんですが、〈僕〉のこととして〈語る〉ことによってはじめて〈他人事〉感がでてくるということばを経由した奇妙な〈僕〉をめぐる〈僕の疎外〉があるのではないかとおもうんです。
それは発話するまでは〈疎外〉はされていないのだけれど、発話してことばにしたとたんにはじめて自分が自分から疎外されるという不思議な疎外です。
たとえばうえにあげた短歌は「僕」が語っている短歌ですが、その短歌のなかで「僕」は「僕」の主体を「僕の体」「僕の頭」「僕全体」と〈僕〉という力点をあえてずらすかたちで主体化しています。この短歌を語っているのは「僕」なんだけれども、その言表のなかでなにかを選択し行動しているのは「one of 僕」であるという〈僕〉の疎外感です。
そもそも『日本の中でたのしく暮らす』っていう歌集のタイトルもすごく不思議なタイトルだなあと思っていたんですが、このタイトルのふしぎさは上にあげた短歌とどうも通底しているようにおもうんですね。
このタイトルのふしぎさって、「たのしく暮らす」に力点がおかれているというよりは、「日本の中で」をあえて言表化し、そこに力点をおいてしまっているふしぎさなのではないかとおもうんです。つまり、上の短歌がすべて結語において「選」んでしたように、歌集のタイトルにも「日本の中」と「日本の中・ではない場所」の二項対立が無意識にかたちづくられ、そのなかから「日本のなかで」が選びとられています。ところがそれによって選び取られてしまうのは、むしろ「日本の中で・じゃない場所ではたのしく暮らせないのか」というやはり言表したがために発覚してしまう〈僕〉の疎外ではないかとおもうんです。
日本の中でたのしく暮らす 道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる 永井祐
が、歌集『日本の中でたのしく暮らす』の表題歌なんですが、なぜ語り手が「道ばたでぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れ」ているのかといえば、おそらく語り手がみずからがみずからを疎外したことにきづいて、それら〈選り分け〉の言表をもういちどカオスにさしむけるために「ぐちゃぐちゃの雪に手をさし入れる」ことによって〈補完=補償〉したのではないか。ところがその行為によってかえってまた語り手自身が語り手によって〈疎外〉されている状況が浮き彫りにされているのではないかとおもうんです。
ちなみに昨日、斉藤斎藤さんの短歌における固有名とわたしをめぐるテーマについて感想を書いてみたんですが、永井さんの短歌の場合、斉藤さんと対照的で、あえて固有名を打ち出さず(「高いところ・広いところ」「日本の中で」「僕の頭」「建物がある方ない方」)、むしろ固有名の場所における〈わたし〉をめぐるテーマがうちだされているのではないかと思います。
固有名を回避したその場所とは、つねに〈わたし〉が〈わたし〉の安定を得られず、むしろ〈わたし〉によって疎外される場所です。
「青い電車」といったやはり固有名を回避したものに、はねとばされる〈疎外〉されてしまうような、斉藤さんとはちがったかたちのもうひとつの〈わたしのリアル〉なのではないかとおもいます。
あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道をわたる 永井祐
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