【感想】ゾンビ化する短詩型文学-短詩型・オブ・ザ・デッド-
- 2014/08/29
- 22:47
ゾンビ、それは近代の理想的市民のネガである。
近代の理想的市民とは、そのつどの具体的経験を経ながら自己をたえずモニタリングする人間、すなわちたんにベタな現実に埋没するのではなく、かといってメタな原理に従って暴走するのでもない、いわば中庸の徳を備えた人間のことである。しかし、ゾンビはと言えば、具体的経験は何一つ蓄積しないし(死んでいるのだから)、自己を検証する意識も持ち合わせない。ゾンビの不気味さは、人間の存在論的条件をことごとく失った後で、なお人間の形骸だけを残していることに由来する。
福嶋亮大「西洋のゾンビ、東洋の幽霊」『ユリイカ ゾンビ』
【これもゾンビですか?】
いま短詩型もゾンビ化していて〈生きてる側の短詩型〉にどんどん感染しているようなんです。
たとえば笹公人さんに次のようなゾンビ短歌の連作があります。
墓場から出できしゾンビ先生の体の穴から覗く秋空
墓場から出できしゾンビ先生の肋骨(あばら)の白がやさしすぎるよ 笹公人
このゾンビ短歌からわかるのは、〈身体の風景化〉なのではないかとおもうんですね。
ゾンビにおいて〈身体〉が喰われ、朽ち、ちぎられ、四散し、モノ化するものとしてあるときに、〈身体〉は視点の土台そのものになるのではなく、〈身体〉は視点があてがわれる景物そのものになってくる。
そうした変容する身体からなにかをかんがえてゆく身体そのものがメディア化するのがゾンビ化なのではないかと思うんですね。
先日紹介した石原ユキオさんのゾンビ俳句も、
野犬ガクハフル我ガ左手ヤ盛爪 石原ユキオ
と、みずからの身体が〈景物〉になっています。とくに「盛爪」がきいているとおもうのですが、ここでは生前の「盛爪」がわたしの身体的記憶を離れて〈風景〉と化しているのがポイントではないかとおもいます。もしくはこんないいかたをしてみてもいいかもしれません。〈風景〉がゾンビをとおして〈身体化〉されたのだ、と。
すこしゾンビ寄りではないですが、形式的カテゴリーとして関さんのこんな句もゾンビ俳句的といっていいかもしれません。
われを焼きよろこぶ美少女の焚火 関悦史
いま焼かれつつある〈わたし〉とそれを実践する美少女が、ひとつの〈風景〉になっているわけです。
〈風景〉が〈身体化〉するといいましたが、そういった抽象性の受肉化として、こんな句も紹介してみたいとおもいます。
秋麗ゾンビのような車掌の声 御中虫
御中虫さんのゾンビ俳句なんですがここでは〈声〉が〈ゾンビ〉を媒介に身体化されてゆくことによって〈声〉そのものが〈趣き〉を感じる〈景物〉そのものになっているように思います。
ゾンビというのは、身体そのものが景物になるだけではなく、ふだん、身体化できない〈声〉といったものに身体性を付与していくものとしてあります。
こんなふうに短詩型ゾンビは、まるでゾンビウィルスなようにわたしたちの知覚を《それとなく》増殖させていくところにポイントがあるように思います。
つまり、知覚は感染するのです。短詩型という古くからあるボディを媒介にして。
わたしはそのような知覚変容のウィルスを定型というボディに盛り込むところにゾンビ化されたあが短詩型もたあがのおもあがろしさがあがあがるのではないかががががと思うのででででが我がすすすがががが、、、、
ゾンビ映画とは理性的で批評的で洒脱なものではなく、だらしなく増殖していくことこそがその表象とメディア的なあり方との間で自己批評的なサーキットを作る条件であったのだ。自己批評性のなさこそが自己批評性を生むというゾンビ映画の魅力の本質がここに現る。
藤田直哉『ポストヒューマニティーズ』
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