【お知らせ】「人/形(たち)の家 『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む」『ウラハイ = 裏「週刊俳句」』2014/8/30
- 2014/08/30
- 13:39
〈私小説〉を読み解く最大のポイントは、主人公が〈小説家〉として自身の生活を自己対象化していくプロセス──メタ・レベルの遠近法──を明らかにしていくことにある。 安藤宏『太宰治研究15』
2014年8月30日更新の『ウラハイ = 裏「週刊俳句」』に、「『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む」を掲載していただきました。ありがとうございました。お時間のあるときにお読みくださればさいわいです。
以前から時実新子さんの川柳は読んでいたのですが、『Senryu So 時実新子2013』(石川街子・妹尾凛・八上桐子 発行・2013年早春)を読んだときに、時実新子さんはおそらくは〈私性〉の枠組みがある意味とても強い川柳作家だとおもうのだけれども、もしかすると違った側面からひかりをあてることでまた違ったおもしろさが出てくる、そういう〈振り幅〉としての〈私性〉をもった川柳作家なのではないかとおもい、感想を書いてみました。
さいきん、〈私性〉とはなんだろうとときどき考えていて、たとえば文学研究では〈私小説〉というのはそのつどそのつど時代や文化と結託してつくられる表現のモード(〈私〉のモード)として考えられたりすることもあるのですが、〈私性〉というものをそういった〈モード〉として相対化することはできないか、そこに読み手の〈私性〉も関わっていることを含めての〈私性〉として〈私性〉の〈振り幅〉を見いだすことはできないだろうかと考えていました。
そこで以前にも感想文を書かせていただいたことのある月波与生さんの時事川柳も含めて(そのときは時事の枠組みを抜いてことばの側面から考えてみたんですが今回は時事の枠組みからとらえなおしてみました)、〈時事〉や〈私〉の枠組みを突き詰め、突き抜けることがかえって〈時事〉や〈私〉というテーマを誘い込んでいくのではないかということを書いてみました(と書いていたら月波与生さんのブログの今日の記事で月波さんの時事川柳があちこちで話題になっていることがわかりました。月波さんの時事川柳のおもしろさのひとつに、文脈の移し替えの妙(たえ)があるのではないかと思います。また月波さんは時事川柳だけでなくむしろ〈詩性〉川柳をたくさん作っておられるので、そうした〈詩〉の枠組みから時事川柳のジャンルそのものを精力的に更新されているようにも思います。月波さんのブログはこちらです。「川柳マガジン9月号から時事川柳三つほど」『与生の月並みな川柳日記』)
〈私性〉というのはすごく難しい概念で、もしかすると〈私性〉というよりも、さまざまな〈わたし〉と〈ことば〉をめぐる〈場〉としてとらえたほうがいいのではないかと思うこともあります。
〈私性〉をもちだすときに、そのいまもちだしている論者の〈私性〉の問題がすぐに出てきてしまうからです。つまり、〈私性〉とは、詠み手=書き手の〈私性〉を問題にした瞬間、それをいま問題にしている読み手の〈私性〉の問題がせりあがってくる〈なにか〉です。
そうすると、〈私性〉とはだいたんな言い方をすれば、〈隠蔽された公共性〉と言うこともできるようにも思います。そこにはじつは歴史や文化やわたしやあなたの〈私〉が公共的に並存しあいながらも、どれかの〈わたし〉に一義的に束ねてしまうかすかな暴力の香りが感じ取られるのもまた〈私性〉なのではないかと。
ねえなにがモラルハザードしているの? 柳本々々
(『川柳マガジン』2014年9月号)
2014年8月30日更新の『ウラハイ = 裏「週刊俳句」』に、「『Senryu So 時実新子2013』を〈カタチ〉から読む」を掲載していただきました。ありがとうございました。お時間のあるときにお読みくださればさいわいです。
以前から時実新子さんの川柳は読んでいたのですが、『Senryu So 時実新子2013』(石川街子・妹尾凛・八上桐子 発行・2013年早春)を読んだときに、時実新子さんはおそらくは〈私性〉の枠組みがある意味とても強い川柳作家だとおもうのだけれども、もしかすると違った側面からひかりをあてることでまた違ったおもしろさが出てくる、そういう〈振り幅〉としての〈私性〉をもった川柳作家なのではないかとおもい、感想を書いてみました。
さいきん、〈私性〉とはなんだろうとときどき考えていて、たとえば文学研究では〈私小説〉というのはそのつどそのつど時代や文化と結託してつくられる表現のモード(〈私〉のモード)として考えられたりすることもあるのですが、〈私性〉というものをそういった〈モード〉として相対化することはできないか、そこに読み手の〈私性〉も関わっていることを含めての〈私性〉として〈私性〉の〈振り幅〉を見いだすことはできないだろうかと考えていました。
そこで以前にも感想文を書かせていただいたことのある月波与生さんの時事川柳も含めて(そのときは時事の枠組みを抜いてことばの側面から考えてみたんですが今回は時事の枠組みからとらえなおしてみました)、〈時事〉や〈私〉の枠組みを突き詰め、突き抜けることがかえって〈時事〉や〈私〉というテーマを誘い込んでいくのではないかということを書いてみました(と書いていたら月波与生さんのブログの今日の記事で月波さんの時事川柳があちこちで話題になっていることがわかりました。月波さんの時事川柳のおもしろさのひとつに、文脈の移し替えの妙(たえ)があるのではないかと思います。また月波さんは時事川柳だけでなくむしろ〈詩性〉川柳をたくさん作っておられるので、そうした〈詩〉の枠組みから時事川柳のジャンルそのものを精力的に更新されているようにも思います。月波さんのブログはこちらです。「川柳マガジン9月号から時事川柳三つほど」『与生の月並みな川柳日記』)
〈私性〉というのはすごく難しい概念で、もしかすると〈私性〉というよりも、さまざまな〈わたし〉と〈ことば〉をめぐる〈場〉としてとらえたほうがいいのではないかと思うこともあります。
〈私性〉をもちだすときに、そのいまもちだしている論者の〈私性〉の問題がすぐに出てきてしまうからです。つまり、〈私性〉とは、詠み手=書き手の〈私性〉を問題にした瞬間、それをいま問題にしている読み手の〈私性〉の問題がせりあがってくる〈なにか〉です。
そうすると、〈私性〉とはだいたんな言い方をすれば、〈隠蔽された公共性〉と言うこともできるようにも思います。そこにはじつは歴史や文化やわたしやあなたの〈私〉が公共的に並存しあいながらも、どれかの〈わたし〉に一義的に束ねてしまうかすかな暴力の香りが感じ取られるのもまた〈私性〉なのではないかと。
ねえなにがモラルハザードしているの? 柳本々々
(『川柳マガジン』2014年9月号)
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