【感想】花の眼窩に静電気生れわたくしは記憶をひとつづつ殺したい 藪内亮輔
- 2014/08/30
- 16:15
花の眼窩に静電気生れわたくしは記憶をひとつづつ殺したい 藪内亮輔
【短歌と/の殺害】
藪内さんの短歌についてまえから考えていたんですが、藪内さんの短歌は安易に読みの枠組みを設定させないところにその特徴があるんじゃないかと思うんです。
たとえば、うえの短歌をみてください。「花」というのは短歌でよく使われるタームです。ところが「花の眼窩」と発話された瞬間、花にまつわるすべての歴史的文脈は「花」から剥奪され、同時代文化とのアクセスも困難になります。「花の眼窩」に対して、読み手はここで、自分でこの「花の眼窩」に対してアクセスしなければならず、意味を構築しなければならない。
だからこうもいえるのではないかと思うんです。藪内さんの短歌は、脱文脈的だとも。突発的な記号の現れが文脈を殺し、かすめとり、既出の文脈は皆殺しにされてしまう。まさに下の句で語り手が「ひとつづつ記憶を殺したい」といっているように〈語〉にまつわる記憶の問題です。
そしてもしかしたら〈表現行為〉とは、そうした脱文脈的な〈記憶の殺害〉にこそあるのではないかと思ったりもするのです。それはときに理想的な読み手をつつき、殺してしまうことにもなるかもしれませんが、ところが逆にいえば、そうしなければ、生成しえない読み手もいるだろう、ということではないかと。
ただこれだけだと、なんだか大枠でしかものをいえていない感じがするので、少し具体的にあえて藪内さんの短歌についてなにかをいってみるならば、たとえばそれは短歌の速度をダウンさせるということです。
上の短歌もそうなんですが「ひとつづつ」といっています。この「ひとつづつ」という意識の処理、意識のスピードダウンに注意してみたいとおもいます。
たとえば次の歌。
おまへもおまへも皆殺してやると思ふとき鳥居のやうな夕暮れが来る 藪内亮輔
ここでは「ひとつづつ」が「おまへもおまへも」という〈ひとりづつ〉に変奏されています。「おまへもおまへも」という発話は読み手に意識の微分化を行わせ、意識のスピードダウン、もしくは微速度への意識をもたせるはずです。そのときにまたふいに現れるのが「花の眼窩」ような「鳥居のやうな夕暮れ」といった文脈殺しのタームです。
つまり、こんなふうにいうこともできるでしょうか。藪内さんの短歌のなかでは、速度が殺され、文脈が殺され、そうした読み手をフォローするものがつぎつぎと殺されてゆくのだと。
ただそうした意識の速度のダウンは、ときに〈ただふつうのありふれた〉風景にも応用されることで、これまでの既出の風景を殺すこととしても機能しています。
きらきらと波をはこんでゐた川がひかりを落とし橋をくぐりぬ 藪内亮輔
雨はふる、降りながら降る 生きながら生きるやりかたを教へてください 〃
どちらもすごく微速度的だとおもいます。速度をこれでもかこれでもかと落とすうちに、ありふれた〈川の流れ〉や、ありふれた〈降雨〉が、殺害され、いままで眼にしたことがなかったような〈非―風景〉として、たちあがってくることで、語り手がみずからの〈生きるやりかた〉をほんとうに〈喪失〉しかかっているのなよくわかるのではないでしょうか。
つまり、〈殺す〉こと、〈生〉を限りなく奪うことから〈生〉に接近してゆくのが藪内さんの短歌の語り手だということもできるかもしれません。
息は生き、さう思ふまで苦しげに其処にゐるだけなのにくるしげに 藪内亮輔
【短歌と/の殺害】
藪内さんの短歌についてまえから考えていたんですが、藪内さんの短歌は安易に読みの枠組みを設定させないところにその特徴があるんじゃないかと思うんです。
たとえば、うえの短歌をみてください。「花」というのは短歌でよく使われるタームです。ところが「花の眼窩」と発話された瞬間、花にまつわるすべての歴史的文脈は「花」から剥奪され、同時代文化とのアクセスも困難になります。「花の眼窩」に対して、読み手はここで、自分でこの「花の眼窩」に対してアクセスしなければならず、意味を構築しなければならない。
だからこうもいえるのではないかと思うんです。藪内さんの短歌は、脱文脈的だとも。突発的な記号の現れが文脈を殺し、かすめとり、既出の文脈は皆殺しにされてしまう。まさに下の句で語り手が「ひとつづつ記憶を殺したい」といっているように〈語〉にまつわる記憶の問題です。
そしてもしかしたら〈表現行為〉とは、そうした脱文脈的な〈記憶の殺害〉にこそあるのではないかと思ったりもするのです。それはときに理想的な読み手をつつき、殺してしまうことにもなるかもしれませんが、ところが逆にいえば、そうしなければ、生成しえない読み手もいるだろう、ということではないかと。
ただこれだけだと、なんだか大枠でしかものをいえていない感じがするので、少し具体的にあえて藪内さんの短歌についてなにかをいってみるならば、たとえばそれは短歌の速度をダウンさせるということです。
上の短歌もそうなんですが「ひとつづつ」といっています。この「ひとつづつ」という意識の処理、意識のスピードダウンに注意してみたいとおもいます。
たとえば次の歌。
おまへもおまへも皆殺してやると思ふとき鳥居のやうな夕暮れが来る 藪内亮輔
ここでは「ひとつづつ」が「おまへもおまへも」という〈ひとりづつ〉に変奏されています。「おまへもおまへも」という発話は読み手に意識の微分化を行わせ、意識のスピードダウン、もしくは微速度への意識をもたせるはずです。そのときにまたふいに現れるのが「花の眼窩」ような「鳥居のやうな夕暮れ」といった文脈殺しのタームです。
つまり、こんなふうにいうこともできるでしょうか。藪内さんの短歌のなかでは、速度が殺され、文脈が殺され、そうした読み手をフォローするものがつぎつぎと殺されてゆくのだと。
ただそうした意識の速度のダウンは、ときに〈ただふつうのありふれた〉風景にも応用されることで、これまでの既出の風景を殺すこととしても機能しています。
きらきらと波をはこんでゐた川がひかりを落とし橋をくぐりぬ 藪内亮輔
雨はふる、降りながら降る 生きながら生きるやりかたを教へてください 〃
どちらもすごく微速度的だとおもいます。速度をこれでもかこれでもかと落とすうちに、ありふれた〈川の流れ〉や、ありふれた〈降雨〉が、殺害され、いままで眼にしたことがなかったような〈非―風景〉として、たちあがってくることで、語り手がみずからの〈生きるやりかた〉をほんとうに〈喪失〉しかかっているのなよくわかるのではないでしょうか。
つまり、〈殺す〉こと、〈生〉を限りなく奪うことから〈生〉に接近してゆくのが藪内さんの短歌の語り手だということもできるかもしれません。
息は生き、さう思ふまで苦しげに其処にゐるだけなのにくるしげに 藪内亮輔
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