【感想】山を食う話をしたよあまりにも悲しみすぎてついにそこまで 正岡豊
- 2014/09/01
- 13:00
山を食う話をしたよあまりにも悲しみすぎてついにそこまで 正岡豊
【悲しみを、食べる】
悲しいときによく思い出している歌なんですが、この正岡さんの歌をたとえばあえて村上昭夫の次のような詩からとらえかえしてみるとはどうなるか。
その山は世界一かも知れぬという
そう聞いた時
ふと悲しみの深淵を
覗いたような気がしたのだ
私の何時も考えていたのは
エヴェレストという山だったのに
その山はもっと嶮しく離れてあって
ひとりの氷河を抱いているという
麓には人が住んでいて
人の眼はほろほろ鳥のようにうるんでいて
登ったことのない山の頂きを
うつろに見つめているという
(……)
その山の名をアムネ・マチンと言い
永劫に雪の姿だから大雪山ともいう
けれどもそう聞いた時
たしかに悲しみの深淵を
覗いたような気がしたのだ
村上昭夫「悲しみを覗く」『現代詩文庫159 村上昭夫詩集』
この詩にあるのは、〈山〉と〈悲しみ〉の関係性だと思うんです。
まず〈山〉が「登ったことのない山の頂き」からもわかるように人間の知力や能動とかかわり合いのない〈超越的孤独〉として語られています。この〈超越的孤独〉にたちあってしまっていることが語り手の孤独です。
語り手は「アムネ・マチン」という「山の名」を手にしますが、しかし山はその「名」がなんの意味ももたないような、不可知の〈深淵〉として語り手の前に屹立しています。「世界一かも知れぬ」山は、どの山とも比肩しえない点においても〈超越的〉な深淵さをみせています。
つまり、なぜひとは山を語ると悲しくなるのかというと、山の〈超越性〉にあるのではないかと思います。そして大事なことは詩においても語られていたことですが、山の「麓には人が住んでいて」というように山の超越性はわたしたちと〈地続き〉であるということです。だから、この〈超越性〉は、〈超越化しえない超越性〉なのだというふうに言えることができるかと思います。
正岡さんの歌においても語り手が「山を食う話」と〈食べる〉という行為を通して〈山〉との地続きを語っています。そしてこの「山を食う話をしたよ」が大事だと思うのは、「山」と「食う」の単語の釣り合わなさです。「土を食う」や「水を飲む」「木を食う」といった「山」の部分を「食う」のではなく、「山を食う話」と語り手は《あえて》記述しています。
ですから、この「山」というのは実はマテリアルな山ではなくて、記号性としての「山」、「食う」の目的格として置かれたときにその〈釣り合わなさ〉から超越的記号性をもってしまうような「山」なのではないかと思うのです。
そして「あまりにも悲しみすぎ」ている感情はその「山」とのかかわり合いにこそあったのではないかと。つまり、語り手は「山」の超越性に「話」=言語を通してかかわりあい、ところがその言語=センテンスのアンバランスによって逆に「山」の超越性にたちあっている。
それはかんたんにいうならば、わたしたちは言語=短歌を使えるけれど、そしてどんなモノやコトでさえ言語=短歌化できるけれど、しかしそうした瞬間にその不釣り合いによって析出されてしまう〈超越性〉がある。だからこそわたしたちは〈悲しい存在〉なのではないかと。
言語によって主体を形成しつつも、その言語によってはじかれてしまう〈山を食う/えない〉われわれ。
そんなところに「山を食う」ことの「悲しみ」があるようにも、おもうのです。
かけのぼる非常階段「うち落とされるなよ君がこの街の傷」 正岡豊
【悲しみを、食べる】
悲しいときによく思い出している歌なんですが、この正岡さんの歌をたとえばあえて村上昭夫の次のような詩からとらえかえしてみるとはどうなるか。
その山は世界一かも知れぬという
そう聞いた時
ふと悲しみの深淵を
覗いたような気がしたのだ
私の何時も考えていたのは
エヴェレストという山だったのに
その山はもっと嶮しく離れてあって
ひとりの氷河を抱いているという
麓には人が住んでいて
人の眼はほろほろ鳥のようにうるんでいて
登ったことのない山の頂きを
うつろに見つめているという
(……)
その山の名をアムネ・マチンと言い
永劫に雪の姿だから大雪山ともいう
けれどもそう聞いた時
たしかに悲しみの深淵を
覗いたような気がしたのだ
村上昭夫「悲しみを覗く」『現代詩文庫159 村上昭夫詩集』
この詩にあるのは、〈山〉と〈悲しみ〉の関係性だと思うんです。
まず〈山〉が「登ったことのない山の頂き」からもわかるように人間の知力や能動とかかわり合いのない〈超越的孤独〉として語られています。この〈超越的孤独〉にたちあってしまっていることが語り手の孤独です。
語り手は「アムネ・マチン」という「山の名」を手にしますが、しかし山はその「名」がなんの意味ももたないような、不可知の〈深淵〉として語り手の前に屹立しています。「世界一かも知れぬ」山は、どの山とも比肩しえない点においても〈超越的〉な深淵さをみせています。
つまり、なぜひとは山を語ると悲しくなるのかというと、山の〈超越性〉にあるのではないかと思います。そして大事なことは詩においても語られていたことですが、山の「麓には人が住んでいて」というように山の超越性はわたしたちと〈地続き〉であるということです。だから、この〈超越性〉は、〈超越化しえない超越性〉なのだというふうに言えることができるかと思います。
正岡さんの歌においても語り手が「山を食う話」と〈食べる〉という行為を通して〈山〉との地続きを語っています。そしてこの「山を食う話をしたよ」が大事だと思うのは、「山」と「食う」の単語の釣り合わなさです。「土を食う」や「水を飲む」「木を食う」といった「山」の部分を「食う」のではなく、「山を食う話」と語り手は《あえて》記述しています。
ですから、この「山」というのは実はマテリアルな山ではなくて、記号性としての「山」、「食う」の目的格として置かれたときにその〈釣り合わなさ〉から超越的記号性をもってしまうような「山」なのではないかと思うのです。
そして「あまりにも悲しみすぎ」ている感情はその「山」とのかかわり合いにこそあったのではないかと。つまり、語り手は「山」の超越性に「話」=言語を通してかかわりあい、ところがその言語=センテンスのアンバランスによって逆に「山」の超越性にたちあっている。
それはかんたんにいうならば、わたしたちは言語=短歌を使えるけれど、そしてどんなモノやコトでさえ言語=短歌化できるけれど、しかしそうした瞬間にその不釣り合いによって析出されてしまう〈超越性〉がある。だからこそわたしたちは〈悲しい存在〉なのではないかと。
言語によって主体を形成しつつも、その言語によってはじかれてしまう〈山を食う/えない〉われわれ。
そんなところに「山を食う」ことの「悲しみ」があるようにも、おもうのです。
かけのぼる非常階段「うち落とされるなよ君がこの街の傷」 正岡豊
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