【あとがき】長谷川恵洋『英語とはどのような言語か』のあとがき
- 2014/09/01
- 22:42
40数年前に書いた修士論文を、出身大学の英文科図書室から持ち出して焼却したいとずっと思っていた。不本意な内容だったからである。
筆者が大学生、大学院生だったとき、猫も杓子もチョムスキーの理論を信奉し追従していた。私もその1人であったが、どうしてもチョムスキーが唱える言語普遍性が納得できなかった。だから予定していた修論はチョムスキーに異議をとなえるものであった。
今日、チョムスキーへの反論はよく目にする。だが当時、一介の大学院生がチョムスキーに反論するなどということはあり得ないことであった。そういう雰囲気があった。私はすこぶる弱気人間である。だから自分の主張をすっと引っ込めた。
当時の私は、まるで、すごすごと尻尾をまいて立ち去っていく負け犬のようであった。思っていたことと全く異なった内容の、にわかにでっち上げた無意味な論文が大学の図書室に保管されている。恥さらしである。だからこっそり持ち出して燃やしたいと思っていた。
その後40数年間、その忌まわしい論文のことは考えないようにしていたのであるが、定年を間近にひかえて、もう一度だけ見てみようと思った。
たまたま息子が同じ大学院に所属し図書室への出入りが自由なのでコピーをしてきてもらった。そして恐る恐るそれを見て愕然とした。目を疑った。そこには、いま私が考えていることと同じことが書かれていたのである。
お前はバカか。40数年間ずっと同じことを考えていたのか。しかもそのことに気づきさえもしなかったのか。
とっくの昔に頭から追い出したつもりだった。それがずっと心の中に居座り続けていた。忘れ去ったつもりなのに同じ考えにずっと取り付かれていたのである。
にわか仕立ての論文を書き終えたのは締め切りの3日前だった。
(……)
若いとき私は指導教授を始め周囲の先生方にずいぶん迷惑をかけたと思う。本書はそれらの先生方に読んでいただきたかった。一言、そうか君はそんなことを考えていたのかと言って欲しかった。だが恩師の多くはもう他界されている。私は66歳である。心の中はまだ16歳ぐらいの気分なのであるが、60後半の自分、それが現実である。いま私は、浦島太郎が故郷に戻ってきたときに思ったであろう悲哀を感じている。
長谷川恵洋「あとがき」『英語とはどのような言語か』
筆者が大学生、大学院生だったとき、猫も杓子もチョムスキーの理論を信奉し追従していた。私もその1人であったが、どうしてもチョムスキーが唱える言語普遍性が納得できなかった。だから予定していた修論はチョムスキーに異議をとなえるものであった。
今日、チョムスキーへの反論はよく目にする。だが当時、一介の大学院生がチョムスキーに反論するなどということはあり得ないことであった。そういう雰囲気があった。私はすこぶる弱気人間である。だから自分の主張をすっと引っ込めた。
当時の私は、まるで、すごすごと尻尾をまいて立ち去っていく負け犬のようであった。思っていたことと全く異なった内容の、にわかにでっち上げた無意味な論文が大学の図書室に保管されている。恥さらしである。だからこっそり持ち出して燃やしたいと思っていた。
その後40数年間、その忌まわしい論文のことは考えないようにしていたのであるが、定年を間近にひかえて、もう一度だけ見てみようと思った。
たまたま息子が同じ大学院に所属し図書室への出入りが自由なのでコピーをしてきてもらった。そして恐る恐るそれを見て愕然とした。目を疑った。そこには、いま私が考えていることと同じことが書かれていたのである。
お前はバカか。40数年間ずっと同じことを考えていたのか。しかもそのことに気づきさえもしなかったのか。
とっくの昔に頭から追い出したつもりだった。それがずっと心の中に居座り続けていた。忘れ去ったつもりなのに同じ考えにずっと取り付かれていたのである。
にわか仕立ての論文を書き終えたのは締め切りの3日前だった。
(……)
若いとき私は指導教授を始め周囲の先生方にずいぶん迷惑をかけたと思う。本書はそれらの先生方に読んでいただきたかった。一言、そうか君はそんなことを考えていたのかと言って欲しかった。だが恩師の多くはもう他界されている。私は66歳である。心の中はまだ16歳ぐらいの気分なのであるが、60後半の自分、それが現実である。いま私は、浦島太郎が故郷に戻ってきたときに思ったであろう悲哀を感じている。
長谷川恵洋「あとがき」『英語とはどのような言語か』
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