【感想】上田信治さんと神野紗希さんの〈コンビニエンス〉な俳句-俳句、あたためますか-
- 2014/09/03
- 12:52
【薫風がほいほい出入りするファミマ/御中虫】
俳句ではときどき、〈正しい表記〉とはなにか、がテーマになる。
たとえば、バレンタインかバレンタインデーか。パソコンかパーソナルコンピューターか。コンビニかコンビニエンスストアか、など。
ただ、わたしはこの表記というのは、実は語り手の〈実感〉としての〈質感〉も関わっているのではないかとおもったりする。
たとえば次のような〈コンビニ〉の俳句がある。
コンビニエンスストアに一人ゐて夕立 上田信治
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
どちらももちろん音律上の調性としての表記の使い分けもあると思うのだが、ここでは語り手の実感としての〈コンビニ〉に注目したい。
まず、上田さんのコンビニは〈コンビニエンスストア〉という表記であるが、思いがけない夕立に閉じこめられてしまった語り手は、コンビニに閉じこめられたことで、ふだんとは違った〈いつでも行けるコンビニ〉から、〈どこへも行けないコンビニ〉を感じている。
つまりここでは〈コンビニ〉というふだんとは変わらない日常的な〈ベタ〉な質感をもった〈コンビニ〉表記ではダメで、コンビニに対するコンビニとしてのメタ・コンビニの意識をひきおこすような〈コンビニエンスストア〉としての異化する表記でなければならない。
なぜなら、おそらく語り手は「一人」で「夕立」に閉じこめられることによって、はじめてのコンビニにたたずむことになり、だからこそその点景が〈俳句化〉たりうる瞬間になったであろうから。
そこから神野さんの〈コンビニ〉の俳句をみてみると、神野さんの俳句は〈(コンビニの)おでん〉に力点がある俳句である。ここで〈コンビニエンスストア〉と〈正しい〉表記をしてしまうと、〈コンビニエンスストアのおでん〉と、〈コンビニエンスストア〉にも重心が生まれてしまい読み手はおでんに向かう前にひっかかってしまうことになる。上田さんの俳句ではむしろひっかかることによってコンビニの異化効果となっていたものが、神野さんの俳句では〈意識のノイズ〉となってしまい、〈おでんが好き〉や〈星きれい〉を疎外してしまうのだ。
だからこそ、語り手は〈実感〉として「コンビニ」という表記を用いた。もっといえば、この俳句における「コンビニのおでん」とは、「コンビニのおでん」という普通名詞だともおもう。「おでん」や「星」などわたしの〈好き〉が偏在化するこの日常世界において、「コンビニのおでん」が〈普通名詞〉化する瞬間を〈俳句化〉したものがこの神野さんの〈コンビニ俳句〉なのではないかと思うのだ。
おそらく、いつか、歴史の教科書に、古墳とコンビニエンスストアが〈遺跡〉として並列されて記述される日がきっと来る。そのときに、遺跡としてはコンビニエンスストアなのだけれども、当時の過去のひとびとが使っていた実感としては、コンビニなのですよ、と説明されるはずだ。そして遺跡コンビニエンスストアは、セブンイレブン、ローソン、ファミリーマートなどの下位カテゴリーにわかれ、それぞれの古代人のスタイルにあわせて、使用されていたそうなのですよ、と。たとえばそれは、
繰り返し「セブンイレブンいい気分」しなないことがいきてゆくこと 柳本々々
俳句ではときどき、〈正しい表記〉とはなにか、がテーマになる。
たとえば、バレンタインかバレンタインデーか。パソコンかパーソナルコンピューターか。コンビニかコンビニエンスストアか、など。
ただ、わたしはこの表記というのは、実は語り手の〈実感〉としての〈質感〉も関わっているのではないかとおもったりする。
たとえば次のような〈コンビニ〉の俳句がある。
コンビニエンスストアに一人ゐて夕立 上田信治
コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
どちらももちろん音律上の調性としての表記の使い分けもあると思うのだが、ここでは語り手の実感としての〈コンビニ〉に注目したい。
まず、上田さんのコンビニは〈コンビニエンスストア〉という表記であるが、思いがけない夕立に閉じこめられてしまった語り手は、コンビニに閉じこめられたことで、ふだんとは違った〈いつでも行けるコンビニ〉から、〈どこへも行けないコンビニ〉を感じている。
つまりここでは〈コンビニ〉というふだんとは変わらない日常的な〈ベタ〉な質感をもった〈コンビニ〉表記ではダメで、コンビニに対するコンビニとしてのメタ・コンビニの意識をひきおこすような〈コンビニエンスストア〉としての異化する表記でなければならない。
なぜなら、おそらく語り手は「一人」で「夕立」に閉じこめられることによって、はじめてのコンビニにたたずむことになり、だからこそその点景が〈俳句化〉たりうる瞬間になったであろうから。
そこから神野さんの〈コンビニ〉の俳句をみてみると、神野さんの俳句は〈(コンビニの)おでん〉に力点がある俳句である。ここで〈コンビニエンスストア〉と〈正しい〉表記をしてしまうと、〈コンビニエンスストアのおでん〉と、〈コンビニエンスストア〉にも重心が生まれてしまい読み手はおでんに向かう前にひっかかってしまうことになる。上田さんの俳句ではむしろひっかかることによってコンビニの異化効果となっていたものが、神野さんの俳句では〈意識のノイズ〉となってしまい、〈おでんが好き〉や〈星きれい〉を疎外してしまうのだ。
だからこそ、語り手は〈実感〉として「コンビニ」という表記を用いた。もっといえば、この俳句における「コンビニのおでん」とは、「コンビニのおでん」という普通名詞だともおもう。「おでん」や「星」などわたしの〈好き〉が偏在化するこの日常世界において、「コンビニのおでん」が〈普通名詞〉化する瞬間を〈俳句化〉したものがこの神野さんの〈コンビニ俳句〉なのではないかと思うのだ。
おそらく、いつか、歴史の教科書に、古墳とコンビニエンスストアが〈遺跡〉として並列されて記述される日がきっと来る。そのときに、遺跡としてはコンビニエンスストアなのだけれども、当時の過去のひとびとが使っていた実感としては、コンビニなのですよ、と説明されるはずだ。そして遺跡コンビニエンスストアは、セブンイレブン、ローソン、ファミリーマートなどの下位カテゴリーにわかれ、それぞれの古代人のスタイルにあわせて、使用されていたそうなのですよ、と。たとえばそれは、
繰り返し「セブンイレブンいい気分」しなないことがいきてゆくこと 柳本々々
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