【感想】問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい 川北天華
- 2014/09/04
- 19:02
問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい 川北天華
【試験と詩験】
工藤吉生さんのマークシートの短歌の感想文を書いていたときにも思ったことなんですが、試験問題の言説(ディスクール)っていうのは、それ自体が〈身体化された文化〉だと思うんですね。
なんどもなんども〈試験〉としての言説形式を読み・解き・書き・見直していく。
だから、それは身体の澱(おり)として言語化できない部分にたまっていく。これをどうみずからが言語化して〈略奪〉していくか、というところに、試験問題のディスクールを盗用=横領していくポイントがあるんじゃないかとおもうんです(工藤さんの場合は、ループと混線によって身体のノイズを浮かび上がらせていた)。
で、この短歌はネットでとても流通した短歌で、内容面はいろいろな方が言及しているので、すこしこの短歌を大枠から考えてみたいとおもいます。
初句が「問十二、」となっているんですが、ここにまず注意してみると、語り手にとっては「問十一」までは〈短歌化〉すべき価値はなかった。しかし「問十二」だけは〈短歌化〉しなければならなかった。
「問十二」にはそういった語り手の〈態度〉が現れていると思うんです。そして同時にそうした「問十一」までの問題文の捨象は、語り手の態度を表すとどうじに、語り手の歴史性もあらわしています。語り手は少なくとも「問十二」までは問題文と向き合ってきたのだと。解いたかどうかはわからないけれど、「問十二」までは少なくとも語り手は〈通過〉してきているはずです。
この短歌がもし時間性をもつとしたら、そうした「問い」が「十一」個ぶん包含されている時間幅にあるのではないかとおもうんです。
ですから、語り手の意思と選択とそれまでに経過した時間と通過し捨象された問いが包含されていることが表されているのが「問十二」ではないかとおもうんです。
で、そうかんがえたときに、わたしは、この短歌の意味の醍醐味は語り手が与えられた普遍的形式=言説である〈試験形式〉そのものを読み替えようとしているところにあるんじゃないかとおもうんですね。
普遍的形式としての試験言説は、〈微分〉という〈数学言説〉との親和からもわかるように、解答をできるだけ、ばらけさせることなく、一義的に析出するのがポイントです。試験とは、そもそもが、一義的な解答を保持する言説をばらばらの人間に与えることで、同じ意味の地平=位相において、人間を〈読み解き能力〉のもとに位階別に分別していくのが〈試験〉です。ですから、一義的な解答によって、できるだけ、できるひととできないひとにわけなければいけない。これが〈試験〉です。
ところが、この語り手は試験全文を抜き出すわけでもなく、「問十二」を抜き出し、さらに〈短歌化〉までしてしまいました。
それによって本来あったはずの〈試験言説〉としての一義的なイデオロギー性は脱色されてしまい、〈短歌〉=詩として、さまざまなひとがさまざまに読み解きをする〈位階〉を設けられない〈文学的ディスクール〉になったはずです。
語り手が、問題文から「問十二」だけを捨象し抜き出すことによって、「問十二」は〈解く〉ものから〈説く〉ものへと変わったのです。
すべては、問題文にあるとおりなのです。〈微分〉を差異化する運動=意味生成とかんがえるならば、「夜空の青」だけでなく、この短歌自体が〈微分〉されつづけていくでしょう(そもそも〈短歌〉はその短さによって自己言及的に意味を微分=差異化していう運動態のようなところがあります)。また「街の明りは無視してもよい」という〈但し書き〉のように、もろもろの解釈が出たとしてもさらにその解釈を〈無視〉して新たな解釈の解釈が生成され、その解釈の解釈の解釈が生成されるのもまた文学言説の特徴でしょう。
そのような語り手の意思と選択が介在することが、零度のエクリチュールのような試験言説にある一定の強度をもたらした、そんな短歌といえるのではないかとおもうのです。
「七文字で『髭の人待つ』」「誤答です」 柳本々々
(『かばん』2014年3月)
【試験と詩験】
工藤吉生さんのマークシートの短歌の感想文を書いていたときにも思ったことなんですが、試験問題の言説(ディスクール)っていうのは、それ自体が〈身体化された文化〉だと思うんですね。
なんどもなんども〈試験〉としての言説形式を読み・解き・書き・見直していく。
だから、それは身体の澱(おり)として言語化できない部分にたまっていく。これをどうみずからが言語化して〈略奪〉していくか、というところに、試験問題のディスクールを盗用=横領していくポイントがあるんじゃないかとおもうんです(工藤さんの場合は、ループと混線によって身体のノイズを浮かび上がらせていた)。
で、この短歌はネットでとても流通した短歌で、内容面はいろいろな方が言及しているので、すこしこの短歌を大枠から考えてみたいとおもいます。
初句が「問十二、」となっているんですが、ここにまず注意してみると、語り手にとっては「問十一」までは〈短歌化〉すべき価値はなかった。しかし「問十二」だけは〈短歌化〉しなければならなかった。
「問十二」にはそういった語り手の〈態度〉が現れていると思うんです。そして同時にそうした「問十一」までの問題文の捨象は、語り手の態度を表すとどうじに、語り手の歴史性もあらわしています。語り手は少なくとも「問十二」までは問題文と向き合ってきたのだと。解いたかどうかはわからないけれど、「問十二」までは少なくとも語り手は〈通過〉してきているはずです。
この短歌がもし時間性をもつとしたら、そうした「問い」が「十一」個ぶん包含されている時間幅にあるのではないかとおもうんです。
ですから、語り手の意思と選択とそれまでに経過した時間と通過し捨象された問いが包含されていることが表されているのが「問十二」ではないかとおもうんです。
で、そうかんがえたときに、わたしは、この短歌の意味の醍醐味は語り手が与えられた普遍的形式=言説である〈試験形式〉そのものを読み替えようとしているところにあるんじゃないかとおもうんですね。
普遍的形式としての試験言説は、〈微分〉という〈数学言説〉との親和からもわかるように、解答をできるだけ、ばらけさせることなく、一義的に析出するのがポイントです。試験とは、そもそもが、一義的な解答を保持する言説をばらばらの人間に与えることで、同じ意味の地平=位相において、人間を〈読み解き能力〉のもとに位階別に分別していくのが〈試験〉です。ですから、一義的な解答によって、できるだけ、できるひととできないひとにわけなければいけない。これが〈試験〉です。
ところが、この語り手は試験全文を抜き出すわけでもなく、「問十二」を抜き出し、さらに〈短歌化〉までしてしまいました。
それによって本来あったはずの〈試験言説〉としての一義的なイデオロギー性は脱色されてしまい、〈短歌〉=詩として、さまざまなひとがさまざまに読み解きをする〈位階〉を設けられない〈文学的ディスクール〉になったはずです。
語り手が、問題文から「問十二」だけを捨象し抜き出すことによって、「問十二」は〈解く〉ものから〈説く〉ものへと変わったのです。
すべては、問題文にあるとおりなのです。〈微分〉を差異化する運動=意味生成とかんがえるならば、「夜空の青」だけでなく、この短歌自体が〈微分〉されつづけていくでしょう(そもそも〈短歌〉はその短さによって自己言及的に意味を微分=差異化していう運動態のようなところがあります)。また「街の明りは無視してもよい」という〈但し書き〉のように、もろもろの解釈が出たとしてもさらにその解釈を〈無視〉して新たな解釈の解釈が生成され、その解釈の解釈の解釈が生成されるのもまた文学言説の特徴でしょう。
そのような語り手の意思と選択が介在することが、零度のエクリチュールのような試験言説にある一定の強度をもたらした、そんな短歌といえるのではないかとおもうのです。
「七文字で『髭の人待つ』」「誤答です」 柳本々々
(『かばん』2014年3月)
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