【短歌】苗字など…(「第78回 短歌ください(お題:名前)」『ダ・ヴィンチ』2014年10月号掲載 穂村弘 選)
- 2014/09/05
- 21:10
苗字など変わった君に電話してその凄まじさ、吹雪くモシモシ 柳本々々
(「第78回 短歌ください(お題:名前)」『ダ・ヴィンチ』2014年10月号)
【荻原さんと萩原さんの間から】
〈名前〉についてときどき考えているんですが、たとえばわたしはあえて極端ないいかたをしてみるならば、〈名前〉もひとつの〈短詩型〉なのではないかとかんがえていることがあります(ここでの〈短詩型〉の意味は、ある短さにおいて構造化することばの連なりです。〈詩〉というよりは、構造において意味を算出していくイメージです)。
名前とは、苗字×名前によってめいめいがおのおののやりかたで構造化される〈詩〉なのではないかと思うときがあるのです(たとえそれが〈本名〉だとしても読み手に構造化されある一定のイメージを与えるということにおいてはやはりそれも構造化された〈詩〉なのではないかと思います)。
ちなみに〈名前〉が〈短歌化〉された例としてつぎのような歌をあげることができるかもしれません。
「ジロー、チェンジ、キカイダー」と命じても「ううう」と呻く加藤治郎は 穂村弘
培養の世代が出会う闘争は★★★★★★★吠えろ荻原! 加藤治郎
だてめがねの穂村弘は虹だから象のうんこは雪のメタファー? 荻原裕幸
どの短歌も詠われる〈名前〉それ自体が、詠い手の〈名前〉と相互干渉を起こすことによって意味がスパークしていると思います。
わたしの好きな名前に、西原天気さんや斉藤斎藤さん、松尾スズキさん、キキダダマママキキさん、最果タヒさん、さやわかさんなどの〈名前〉があるんですが、たとえば西原天気さんの〈名前〉に着目してみた場合、〈西原〉という意味を固定する苗字と、〈天気〉という意味を蒸留し気化していくような拡散する名前とが構造をなしているように思うんですね。
そしてそれはどこかで西原天気さんの俳句テクストにおける読み手の意味生成ともかかわってくることもあるのではないか、と。そういう、主体性をもたないただ純粋なエクリチュールとしての〈名〉という作家性=意味生成もあるのではないか、と(もちろん、ひとつの読みの可能性としてです)。
人間主体ではなく、純粋なテキスト(文字)という〈作家性〉です。アンチヒューマンな、極めて純粋な字面としての〈作家性〉。
そしてその意味で、もしかしたら、名前とは、いちばん短い詩なのではないかと思うこともあるんです。
それは、すべてのテクストとかかわっていくし、逆にすべてとかかわらないかたちでかかわりながら、いつまでも意味生成しつづけている。
たぶん、だれしもが、人生でいちばん〈書く/書き直す/消す/刻む/痕跡する〉エクリチュールは、みずからの〈名前〉なはずです。
わたしたちは、つねに、みずからの〈名前〉を書き、発話し、読解し、誤読し、疎外され、また名乗ってゆくのではないか、と。
ちなみに荻原裕幸さんと萩原朔太郎の歌集と詩集を交互に読んでいたときにこんな歌をつくったことがありました。
荻原と萩原の間の真空に柳本(やぎもと)としてわれはたたずむ 柳本々々
(「にんげんのことば」『かばん』2013年12月号)
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