【感想】イチャイチャ短歌の行方-いちゃいちゃとは、なにか-
- 2014/09/08
- 23:54
世界には、イチャイチャ短歌なるものがある。
これは、短歌を〈いいわるい〉や〈技法レトリック〉関係なく、いちゃいちゃしてるかどうかで判断するカテゴリーである。
たとえば、次のような短歌がいちゃいちゃ短歌の代表になるのではないかとおもう。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智
どこが/なにが、いちゃいちゃしているのか。
わたしはここで〈いちゃいちゃ〉をあえてきちんと言語化してみたい。
いちゃいちゃとは、なにか。
いちゃいちゃとは、おそらく、〈即座に応答してくれるひとがいる発話/行為〉である。
わたしが何かいう、何かする。それに即座にリアクションしてくれること。それが、いちゃいちゃなのではないか。
もっといえば、抗うリアクションではいちゃいちゃではないわけだから、〈同語反復的〉に〈応答〉してくれることが大事になる。
たとえば、〈好き〉といったら〈好き〉と応答してくれなければならない。〈おいしいね〉といったら〈おいしい〉。
その〈同語反復性〉に、記号の空転性にわたしはいわゆる〈いちゃいちゃ/リア充/バカップル〉という言説の鍵があるようにおもう。
俵万智さんの短歌のように、寒いね、といえば、即座に、寒いね、と帰ってくる。
これが、形式としての、黄金的いちゃいちゃなのではないか。
そしてそのまったく対極をいくのが、永井さんのつぎのうたである。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
ここには、同語反復性はない。応答もない。リアクションもない。二字空きも切なる距離感を感じさせる。というよりも、ここでは〈空き〉がリアクションしたのだ。
投げかけられた発話はたしかにこの歌においては〈空転〉している。しかし、受け止められず反復もされなかった発話記号は、みずからの根拠をあずけることをせずに、読み手に向けて記号のリビドーを投げかけている。誰にも受け止められなかった発話は、読み手が受け取り、受け損ねることを待っている。だれにも回収されえない言説として。
つまり、いちゃいちゃでもなく、リア充でもなく、バカップルにもなれないということを、誰にも回収されえない言説の使い手となるということだ。
爆発的に普及する言説は、生産できないかもしれない。
それでも、こうした、あちこちが破れた言説は、〈難破船〉として思わぬ読み手に〈誤配〉されることがある。
それが、おそらく、マイノリティな言説の強みであり、強度でもあるのではないか。
たとえば、さきほどの俵万智さんもそうした回収されえない言説の短歌をつくっている。
焼き肉とグラタンが好きという少女よわたしはあなたのお父さんが好き 俵万智
「あなたのお父さんが好き」という少女を少女にむけて遂行している限りにおいてこの短歌の語り手の言説はどこにも回収されえない。〈不倫〉の枠組みが強い歌ではあるけれど、あくまで主語は「わたし」なので、〈同性愛〉として読むことも可能なうただ。セクシャリティの変容としてあえて〈誤読〉するのもありかもしれないし、「わたし」を母親ととらえて家族の変容として〈誤配〉してもいいかもしれない。
難破船という強度はおそらくそういうものではないか。
〈いちゃいちゃ〉しない言説が、逆に強度を増して、散種される場合もあるのではないかということ。
つまり、びゅんびゅんあちこちに〈誤配〉されてゆきあらゆる位相の読み手を巻き込んでゆくような力強さをもった〈反相聞的相聞歌〉もあってもいいのではないかということ。闇と光の折衝する力強さを。すなわち、それは、
誰のハートも盗まずにきて真夜中のくらい光に指をひろげる 虫武一俊
これは、短歌を〈いいわるい〉や〈技法レトリック〉関係なく、いちゃいちゃしてるかどうかで判断するカテゴリーである。
たとえば、次のような短歌がいちゃいちゃ短歌の代表になるのではないかとおもう。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智
どこが/なにが、いちゃいちゃしているのか。
わたしはここで〈いちゃいちゃ〉をあえてきちんと言語化してみたい。
いちゃいちゃとは、なにか。
いちゃいちゃとは、おそらく、〈即座に応答してくれるひとがいる発話/行為〉である。
わたしが何かいう、何かする。それに即座にリアクションしてくれること。それが、いちゃいちゃなのではないか。
もっといえば、抗うリアクションではいちゃいちゃではないわけだから、〈同語反復的〉に〈応答〉してくれることが大事になる。
たとえば、〈好き〉といったら〈好き〉と応答してくれなければならない。〈おいしいね〉といったら〈おいしい〉。
その〈同語反復性〉に、記号の空転性にわたしはいわゆる〈いちゃいちゃ/リア充/バカップル〉という言説の鍵があるようにおもう。
俵万智さんの短歌のように、寒いね、といえば、即座に、寒いね、と帰ってくる。
これが、形式としての、黄金的いちゃいちゃなのではないか。
そしてそのまったく対極をいくのが、永井さんのつぎのうたである。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
ここには、同語反復性はない。応答もない。リアクションもない。二字空きも切なる距離感を感じさせる。というよりも、ここでは〈空き〉がリアクションしたのだ。
投げかけられた発話はたしかにこの歌においては〈空転〉している。しかし、受け止められず反復もされなかった発話記号は、みずからの根拠をあずけることをせずに、読み手に向けて記号のリビドーを投げかけている。誰にも受け止められなかった発話は、読み手が受け取り、受け損ねることを待っている。だれにも回収されえない言説として。
つまり、いちゃいちゃでもなく、リア充でもなく、バカップルにもなれないということを、誰にも回収されえない言説の使い手となるということだ。
爆発的に普及する言説は、生産できないかもしれない。
それでも、こうした、あちこちが破れた言説は、〈難破船〉として思わぬ読み手に〈誤配〉されることがある。
それが、おそらく、マイノリティな言説の強みであり、強度でもあるのではないか。
たとえば、さきほどの俵万智さんもそうした回収されえない言説の短歌をつくっている。
焼き肉とグラタンが好きという少女よわたしはあなたのお父さんが好き 俵万智
「あなたのお父さんが好き」という少女を少女にむけて遂行している限りにおいてこの短歌の語り手の言説はどこにも回収されえない。〈不倫〉の枠組みが強い歌ではあるけれど、あくまで主語は「わたし」なので、〈同性愛〉として読むことも可能なうただ。セクシャリティの変容としてあえて〈誤読〉するのもありかもしれないし、「わたし」を母親ととらえて家族の変容として〈誤配〉してもいいかもしれない。
難破船という強度はおそらくそういうものではないか。
〈いちゃいちゃ〉しない言説が、逆に強度を増して、散種される場合もあるのではないかということ。
つまり、びゅんびゅんあちこちに〈誤配〉されてゆきあらゆる位相の読み手を巻き込んでゆくような力強さをもった〈反相聞的相聞歌〉もあってもいいのではないかということ。闇と光の折衝する力強さを。すなわち、それは、
誰のハートも盗まずにきて真夜中のくらい光に指をひろげる 虫武一俊
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