〈ジロー・吠えろ荻原!・だてめがねの穂村弘〉の真空で書くあとがき★★★
- 2014/09/09
- 23:37
「ジロー、チェンジ、キカイダー」と命じても「ううう」と呻く加藤治郎は 穂村弘
培養の世代が出会う闘争は★★★★★★★吠えろ荻原! 加藤治郎
だてめがねの穂村弘は虹だから象のうんこは雪のメタファー? 荻原裕幸
短歌が短歌にとる距離感というものを最近かんがえていて、で、この三首は三首がめいめいに短歌としての〈距離感〉をうちだしているんではないかと思うんです。
たとえば、穂村さんの短歌の場合、〈加藤治郎〉という記号に出会う前に、いちど、「ジロー、チェンジ、キカイダー」と、〈隠喩の跳躍〉を経由してからの〈加藤治郎〉との出会いになります。ここでは距離感は、おそらく、隠喩のロケットであり、ロケットを飛ばしてこその〈加藤治郎〉という記号への遭遇になりうるのだとおもいます。
また、加藤治郎さんの場合は、〈荻原〉に遭遇するまでに、★★★★★★★が並んでいるのが特徴的です。これはそもそも荻原裕幸さんの連作「ウッドストックの憂鬱」にてみられたものだと思うんですが、「ウッドストック」の言語化しえない発話である★★★★★★★を加藤さんが文脈を脱埋め込み化し再文脈化することにより、つまり、ウッドストックの発話が、闘争と吠えろの文脈のもとではじけるスターとなることによって、新たな記号を生成することによっての〈荻原〉という記号への遭遇になるのだとおもいます。
さいごに、荻原さんの〈穂村弘〉は、まずはじめに即座に〈穂村弘〉に遭遇するのですが、述語統合させずに、述語でずらす構造になっていると思います(結語の「?」も意味の非決定=ズラしとして象徴的です)。「穂村弘は虹」「象のうんこは雪のメタファー?」というように〈穂村弘〉という記号も、〈穂村弘〉の〈象のうんこ〉の有名な短歌も、意味が決定しえないように「虹」「雪のメタファー?」と暗喩化しえない隠喩として述語がずらされることによって、〈穂村弘〉という遭遇自体がズラされる短歌になってるとおもうんですね。つまりここには、わたしは、〈穂村弘〉の短歌に〈ほんとうにわたしたちはであえているのか〉、つねに、〈穂村弘〉を語りつつも、その述語的統合=意味付けによって出会いそこねているのではないかという意味合いが隠されているようにもおもいます。〈遭遇という出来事〉自体の可視化。
これが、わたしが、三首から感じ取る、短歌による短歌への短歌の距離感です。
荻原と萩原の間の真空に柳本(やぎもと)としてわれはたたずむ 柳本々々
わたしの〈荻原短歌〉に、〈荻原〉裕幸さんがツイッター(@ogiharahiroyuki)で評を書いてくださいました。ありがとうございました!(いつもTwitterで感想文の評もくださいましてありがとうございます!)
柳本々々さんの「柳本として」の一首は、斉藤斎藤さんの「お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする」に近い感覚なんじゃないかと思う。そこにはアムロ行きます的な自然感がない。シャアがシャアの名を生きるような決意としての自称がある。「柳本」は選択された「本名」だろう。
ほんとに違うのかよ疑惑が取り沙汰され、もうどっちかに統一しちゃえば派が主流となった荻原萩原問題。そのデリケートな狭間の領域に、どうつつきまわしても関連性の見えない柳本のわりこみである。必然性ゼロという絶対感。
(@ogiharahiroyuki)
拝読して気づいたのは、荻原さんが「名を生きるような決意」と書かれたように、ひとは、ひとつの名前しか選べないんだな、ということです。
たとえば、詩人のフェルナンド・ペソアのようにどんなに多くの筆名をもっていたとしても(アルベルト・カエイロ、リカルド・ヘイス、
アルヴァロ・デ・カンポスなど)、そのときその場でそのエクリチュールの主体として名乗れるのは〈ひとり〉です。
アムロ行きます、と、わたしはシャア・アズナブルである、の違いは、おそらく、シャアが「シャア・アズナブル」という名前を、それ自体が〈事件〉としてとらえていることだと思います。名前は、おそらく、事件です。名前を、意識し、みずからの名前を他者の名前としてつきはなし、それでもわたしの名として名乗ろうとするとき、それは〈事件〉なのではないかと。
どれだけ荻原・萩原という微分化されたブレがあったとしても、そして多くの可能性と選択肢が目の前に並べられていたとしても、たとえじぶんがすべての可能性をはらんだ真空にいたとしても、自分のなまえはひとつしかえらべない。
そういうことなのではないかと荻原さんが書いてくださった評を読んでおもいました。
これからもたくさんの「必然性ゼロという絶対感」を世界の内側/外側に探し出していこうとおもいました。
ありがとうございました!
ウッドストックがこの街にゐてくれたらとても楽しいだらう。きらきら光るものが多いこの街では、彼のお喋りも、☆☆☆☆☆とか★★★★★なんて感じになるに違ひない。それにただ耳を傾け、ぼんやり一日を過ごしてみたい。でも、彼にとつてはひどく憂鬱な一日になるかも知れない。この街にはスヌーピーがゐないから。スヌーピーがゐないと、彼のお喋りが「意味」として結晶することはないのだから。
荻原裕幸「ウッドストックの憂鬱」『デジタル・ビスケット』
培養の世代が出会う闘争は★★★★★★★吠えろ荻原! 加藤治郎
だてめがねの穂村弘は虹だから象のうんこは雪のメタファー? 荻原裕幸
短歌が短歌にとる距離感というものを最近かんがえていて、で、この三首は三首がめいめいに短歌としての〈距離感〉をうちだしているんではないかと思うんです。
たとえば、穂村さんの短歌の場合、〈加藤治郎〉という記号に出会う前に、いちど、「ジロー、チェンジ、キカイダー」と、〈隠喩の跳躍〉を経由してからの〈加藤治郎〉との出会いになります。ここでは距離感は、おそらく、隠喩のロケットであり、ロケットを飛ばしてこその〈加藤治郎〉という記号への遭遇になりうるのだとおもいます。
また、加藤治郎さんの場合は、〈荻原〉に遭遇するまでに、★★★★★★★が並んでいるのが特徴的です。これはそもそも荻原裕幸さんの連作「ウッドストックの憂鬱」にてみられたものだと思うんですが、「ウッドストック」の言語化しえない発話である★★★★★★★を加藤さんが文脈を脱埋め込み化し再文脈化することにより、つまり、ウッドストックの発話が、闘争と吠えろの文脈のもとではじけるスターとなることによって、新たな記号を生成することによっての〈荻原〉という記号への遭遇になるのだとおもいます。
さいごに、荻原さんの〈穂村弘〉は、まずはじめに即座に〈穂村弘〉に遭遇するのですが、述語統合させずに、述語でずらす構造になっていると思います(結語の「?」も意味の非決定=ズラしとして象徴的です)。「穂村弘は虹」「象のうんこは雪のメタファー?」というように〈穂村弘〉という記号も、〈穂村弘〉の〈象のうんこ〉の有名な短歌も、意味が決定しえないように「虹」「雪のメタファー?」と暗喩化しえない隠喩として述語がずらされることによって、〈穂村弘〉という遭遇自体がズラされる短歌になってるとおもうんですね。つまりここには、わたしは、〈穂村弘〉の短歌に〈ほんとうにわたしたちはであえているのか〉、つねに、〈穂村弘〉を語りつつも、その述語的統合=意味付けによって出会いそこねているのではないかという意味合いが隠されているようにもおもいます。〈遭遇という出来事〉自体の可視化。
これが、わたしが、三首から感じ取る、短歌による短歌への短歌の距離感です。
荻原と萩原の間の真空に柳本(やぎもと)としてわれはたたずむ 柳本々々
わたしの〈荻原短歌〉に、〈荻原〉裕幸さんがツイッター(@ogiharahiroyuki)で評を書いてくださいました。ありがとうございました!(いつもTwitterで感想文の評もくださいましてありがとうございます!)
柳本々々さんの「柳本として」の一首は、斉藤斎藤さんの「お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする」に近い感覚なんじゃないかと思う。そこにはアムロ行きます的な自然感がない。シャアがシャアの名を生きるような決意としての自称がある。「柳本」は選択された「本名」だろう。
ほんとに違うのかよ疑惑が取り沙汰され、もうどっちかに統一しちゃえば派が主流となった荻原萩原問題。そのデリケートな狭間の領域に、どうつつきまわしても関連性の見えない柳本のわりこみである。必然性ゼロという絶対感。
(@ogiharahiroyuki)
拝読して気づいたのは、荻原さんが「名を生きるような決意」と書かれたように、ひとは、ひとつの名前しか選べないんだな、ということです。
たとえば、詩人のフェルナンド・ペソアのようにどんなに多くの筆名をもっていたとしても(アルベルト・カエイロ、リカルド・ヘイス、
アルヴァロ・デ・カンポスなど)、そのときその場でそのエクリチュールの主体として名乗れるのは〈ひとり〉です。
アムロ行きます、と、わたしはシャア・アズナブルである、の違いは、おそらく、シャアが「シャア・アズナブル」という名前を、それ自体が〈事件〉としてとらえていることだと思います。名前は、おそらく、事件です。名前を、意識し、みずからの名前を他者の名前としてつきはなし、それでもわたしの名として名乗ろうとするとき、それは〈事件〉なのではないかと。
どれだけ荻原・萩原という微分化されたブレがあったとしても、そして多くの可能性と選択肢が目の前に並べられていたとしても、たとえじぶんがすべての可能性をはらんだ真空にいたとしても、自分のなまえはひとつしかえらべない。
そういうことなのではないかと荻原さんが書いてくださった評を読んでおもいました。
これからもたくさんの「必然性ゼロという絶対感」を世界の内側/外側に探し出していこうとおもいました。
ありがとうございました!
ウッドストックがこの街にゐてくれたらとても楽しいだらう。きらきら光るものが多いこの街では、彼のお喋りも、☆☆☆☆☆とか★★★★★なんて感じになるに違ひない。それにただ耳を傾け、ぼんやり一日を過ごしてみたい。でも、彼にとつてはひどく憂鬱な一日になるかも知れない。この街にはスヌーピーがゐないから。スヌーピーがゐないと、彼のお喋りが「意味」として結晶することはないのだから。
荻原裕幸「ウッドストックの憂鬱」『デジタル・ビスケット』
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