【感想】二十世紀を路上に撒きぬ野口る理 関悦史
- 2014/09/18
- 02:30
二十世紀を路上に撒きぬ野口る理 関悦史
【季語をまきちらす】
クプラスのコーナーもそうだったのだが、野口る理さんと関悦史さんのそのつどのコラボを楽しくみている。
私は、関悦史さんは〈引用〉の力学がとても巧みなひとだと思っている。
だから、同時代文化にちらばっているメインカルチャー/サブカルチャーのなかの無時間的記号を俳句に〈引用〉することによって〈時間性〉を付与していくのが、関さんにおける〈季語〉なのではないかとおもったりさえするが(つまりここで時間=季感を付与するのは〈引用〉という行為になる)、この句においては〈野口る理〉が〈季語化〉しているのではないかとおもったりもする。
だから、「二十世紀」は梨かもしれないし、時間のかたまりかもしれない。そのどちらでもいい。
梨と時間を同時にまきちらす「野口る理」。
でも、〈季語〉とはそもそもそうしたマテリアルと時間をまきちらす放射的記号なのではなかっただろうか。
わたしたちは季語からマテリアルと同時に時間性もくみとっていく。だからここでの「野口る理」は、そのくみとりの逆の「撒き」ちらしをしているので〈反季語〉といえるかもしれない。そして〈反季語〉も季語と二項対立化することによって季語を構造化している季語なのだ。
「る理」の「る」が示すように時間軸は循環している。「る」がまきちらした「二十世紀」は、たぶん、「二十一世紀」にも「二十二世紀」もなんどもなんども円環的に到来するにちがいない。まきちらされた梨のようなごろごろしたマテリアルをともなって。
そして、歴史の流れのなかで、たったひとりきりしか立てないめいめいの・(ドット)のなかで、時間の梨をひとりひとりが手におさめていく。
その時間の梨すらもやがては・(ドット)になるかもしれないが、しかしそこにかすかについた〈傷〉はたぶん、その・(ドット)に立ち、梨をひろいあげたあなたの歴史をわすれない。
路面を知り擦り傷黒き梨をもらふ 関悦史
【季語をまきちらす】
クプラスのコーナーもそうだったのだが、野口る理さんと関悦史さんのそのつどのコラボを楽しくみている。
私は、関悦史さんは〈引用〉の力学がとても巧みなひとだと思っている。
だから、同時代文化にちらばっているメインカルチャー/サブカルチャーのなかの無時間的記号を俳句に〈引用〉することによって〈時間性〉を付与していくのが、関さんにおける〈季語〉なのではないかとおもったりさえするが(つまりここで時間=季感を付与するのは〈引用〉という行為になる)、この句においては〈野口る理〉が〈季語化〉しているのではないかとおもったりもする。
だから、「二十世紀」は梨かもしれないし、時間のかたまりかもしれない。そのどちらでもいい。
梨と時間を同時にまきちらす「野口る理」。
でも、〈季語〉とはそもそもそうしたマテリアルと時間をまきちらす放射的記号なのではなかっただろうか。
わたしたちは季語からマテリアルと同時に時間性もくみとっていく。だからここでの「野口る理」は、そのくみとりの逆の「撒き」ちらしをしているので〈反季語〉といえるかもしれない。そして〈反季語〉も季語と二項対立化することによって季語を構造化している季語なのだ。
「る理」の「る」が示すように時間軸は循環している。「る」がまきちらした「二十世紀」は、たぶん、「二十一世紀」にも「二十二世紀」もなんどもなんども円環的に到来するにちがいない。まきちらされた梨のようなごろごろしたマテリアルをともなって。
そして、歴史の流れのなかで、たったひとりきりしか立てないめいめいの・(ドット)のなかで、時間の梨をひとりひとりが手におさめていく。
その時間の梨すらもやがては・(ドット)になるかもしれないが、しかしそこにかすかについた〈傷〉はたぶん、その・(ドット)に立ち、梨をひろいあげたあなたの歴史をわすれない。
路面を知り擦り傷黒き梨をもらふ 関悦史
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