恋するあとがき。
- 2014/09/18
- 02:56
以前からずっと〈類想句〉ということについてかんがえていることがあって、類想句の根っこには自分の〈好きの所在〉がどういうふうに構造化されていたのかという問題があるのかなあとおもったりもする。
この句や歌をじぶんがだいすきだなあとおもうときに、その〈だいすき〉とはいったい、なんなのだろうか。
こういう句や歌が〈好き〉というときに、好きなのはその〈記号性〉もあるかもしれないけれど、実は無意識で〈構造〉を好きになっているのではないかと。
ただこれは無意識の問題なので、いちどじぶんで好きな句や歌の構造を抽出し、可視化する作業も必要なのかなと思ったりすることがある。つまり、じぶんなりに構造として〈読んでみる〉ことも必要なのではないかと。
もちろん、ことばや記号が好きだからこの句や歌が好きなんです、というのがあるとはおもうのだけれど、じつはことばや名詞や動詞や記号の輪郭は構造が与えていて、その構造だったからこそ、ことばや名詞や動詞や記号が映えたのではないかとおもったりもするのだ。
〈好き〉というのが実はアバウトではなくて、あるていど構造化されたりしているかもしれないということ。
でもその自分の〈好き〉の構造化を意識することによって、逆に〈好き〉の構造をくみかえていく構造化をすること。または、ショックをうけた句にはそうしたみずからの〈好き〉の構造化を組み換えるような構造化する構造がしかけられているのかもしれないということ。
そういう構造の観点から、〈好き〉をかんがえてみるのもありなのかなあとおもったりすることがある。
恋文なんかも、たぶん、構造化されているのだ。愛の告白も、プロポーズも。
だから、恋文で脱恋文的恋文を書くのもありかもしれないとおもったりすることもある。
たとえば、四章仕立てになっていて、あとがきまでついており、著者近影まである恋文。もはや、相手が主体なのか、自分が主体なのか、わからない恋文。けれどもなんかすごい恋文。ゆうじんの帯文までついている恋文。
帯文にはこう書かれてある。「これを読んでわたしは一生このひとについていこうと思いました。ありがとう!」
脱構造化された恋文は、こんなふうにだんだんと構造化めいてくる。
「あいしてる」というひとことも、構造化されているのだろうか。ロラン・バルトは、ノンというかもしれない。それは、ハチがぶんぶんするような徘徊する不定形のディス・クルススだと。
わたしは、あるとき、ふいにふりかえって告白する。
「あなたのことが、脱構造的構造として、好きになりました。」
そうして、わたしは構造的にふられてしまう。
わたしは、めそめそしながら、膝からくずれおちてしまう。すこし構造的に。
悲しくて自動販売つぎつぎと 柳本々々
(現代川柳綿毛の会2014年4月)
この句や歌をじぶんがだいすきだなあとおもうときに、その〈だいすき〉とはいったい、なんなのだろうか。
こういう句や歌が〈好き〉というときに、好きなのはその〈記号性〉もあるかもしれないけれど、実は無意識で〈構造〉を好きになっているのではないかと。
ただこれは無意識の問題なので、いちどじぶんで好きな句や歌の構造を抽出し、可視化する作業も必要なのかなと思ったりすることがある。つまり、じぶんなりに構造として〈読んでみる〉ことも必要なのではないかと。
もちろん、ことばや記号が好きだからこの句や歌が好きなんです、というのがあるとはおもうのだけれど、じつはことばや名詞や動詞や記号の輪郭は構造が与えていて、その構造だったからこそ、ことばや名詞や動詞や記号が映えたのではないかとおもったりもするのだ。
〈好き〉というのが実はアバウトではなくて、あるていど構造化されたりしているかもしれないということ。
でもその自分の〈好き〉の構造化を意識することによって、逆に〈好き〉の構造をくみかえていく構造化をすること。または、ショックをうけた句にはそうしたみずからの〈好き〉の構造化を組み換えるような構造化する構造がしかけられているのかもしれないということ。
そういう構造の観点から、〈好き〉をかんがえてみるのもありなのかなあとおもったりすることがある。
恋文なんかも、たぶん、構造化されているのだ。愛の告白も、プロポーズも。
だから、恋文で脱恋文的恋文を書くのもありかもしれないとおもったりすることもある。
たとえば、四章仕立てになっていて、あとがきまでついており、著者近影まである恋文。もはや、相手が主体なのか、自分が主体なのか、わからない恋文。けれどもなんかすごい恋文。ゆうじんの帯文までついている恋文。
帯文にはこう書かれてある。「これを読んでわたしは一生このひとについていこうと思いました。ありがとう!」
脱構造化された恋文は、こんなふうにだんだんと構造化めいてくる。
「あいしてる」というひとことも、構造化されているのだろうか。ロラン・バルトは、ノンというかもしれない。それは、ハチがぶんぶんするような徘徊する不定形のディス・クルススだと。
わたしは、あるとき、ふいにふりかえって告白する。
「あなたのことが、脱構造的構造として、好きになりました。」
そうして、わたしは構造的にふられてしまう。
わたしは、めそめそしながら、膝からくずれおちてしまう。すこし構造的に。
悲しくて自動販売つぎつぎと 柳本々々
(現代川柳綿毛の会2014年4月)
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