【お知らせ】「『渡辺のわたし』をめぐる斉藤斎藤の〈わたし〉」「第三十二回 現代短歌評論賞」『短歌研究』2014年10月号
- 2014/09/20
- 00:47
短歌研究主催の第三十二回現代短歌評論賞の候補作に「『渡辺のわたし』をめぐる斉藤斎藤の〈わたし〉」を選んでいただきました。ありがとうございました!
各選考委員の方からていねいな選評をいただいたのですが、ここではふだん書いている感想文もふりかえる意味も込めて、いただいた批判点を引用させていただこうと思います。
【佐佐木幸綱氏から】
一言を苦言で言えば、評論の文章としてはよくない。文末が「……ではないか」、「……と思う」といった論理的ではない書き方になっている。これは論文としては×点がつく。ここは考えてほしい。
【篠弘氏から】
最後のところに「本稿の課題」が三つ書いてあります。「この歌集を同時代の文化や歴史と接続しつつ読んだ場合、どういった側面がみえてくるのか」。ここが面白いのでね、やはり少し入れてほしかったと思った。二つ目に「同時代に多くの歌集が出版されており、また短歌もおおく詠まれたはずだが、そのような同時代の短歌の〈わたし〉と、『渡辺のわたし』の〈わたし〉がどのように共約する部分をもちながらも、差異化しあっているか」。『渡辺のわたし』のことだけ書いてきてしまったから抜けてしまったので、こうした適切な比較をもっとすべきだった。さらに三つ目に「そういった〈他者〉からのこの歌集をとらえなおした際にどういった相貌がみえてくるのか」。これらはもっと中へ織り込めたと思う。
【大島史洋氏から】
僕は難しくてわからなかった。「同一性を担保している」とか、「同一性への執着」とか、どういうことなのか。「固有名を語り手が使えるということは、固有名を使用している主体の一致、主体自身の同一化を信じているということの現れなのではないか」と言うけど、よくわからない。
斉藤斎藤の歌で「ズレている〈わたし〉」という感覚はわかるんですが、斉藤斎藤はこんなに難しいことを言っていたかなと思って。『渡辺のわたし』をあらためて読んだんですけど、もっと軽い、面白い歌がいっぱいあって、気楽に読んでいい歌集。それが何でこんな難しいことになっているんだろう。「近代的〈わたくし〉を脱臼させることによってもういちど近代的〈わたくし〉をとらえなおす試みが『渡辺のわたし』だったのではないか」と。わかるような、わからないような。難しかった。
【三枝昴之氏から】
まず読みにくいですね。篠さんが挙げた最後の「共約する部分をもちながらも、差異化しあっているか」という一行をとっても。論というのはその論を読んだときに印象が一歩クリアになることが大切なんだけども、一歩難しくなっていて、そこでこの文章にちょっと引いてしまう。
(……)
それがかっこいいというのが錯覚なんですよ。昔、難しく書くと高踏的だというスタイルがあったでしょう。あれはどんどん崩れていったけれども、今はその迷路論で何か深遠な雰囲気を出そうというスタイルがあって、それはどうかなと思います。それから、佐佐木さんが片山廣子を出しましたけど、短歌史の中で見ていくと短歌の〈われ〉を疑って意識的にずらす歌人は、時代、時代に出てくるんだよね。近代短歌には、〈わたくし〉としての発話主体、〈わたし=わたし〉という強固なものがあって、斉藤斎藤はそうじゃないという見取り図は、あまりにも乱暴すぎる。
以上、批判点をしっかりと受け止めて、より精進していきたいと思います。
ありがとうございました。
- 関連記事
-
- 【お知らせ】「【短詩時評 第11巻】Welcome to the Hotel Nejimaki -『川柳ねじまき』第2号を読む-」『BLOG俳句新空間 第35号』 (2016/01/23)
- 【お知らせ】「【こわい川柳を読む】なぜ怪談は「おわかりいただけ」ないと駄目なのか-〈そっちじゃないよ、うしろにいるよ。〉という怪談をめぐる定型性-」『-BLOG俳句新空間-第18号』 (2015/05/30)
- 【お知らせ】はらだ有彩「5月のヤバい女の子/我慢とヤバい女の子」『アパートメント』レビュー (2016/05/01)
- 【お知らせ】俳文「ぽ譚」『週刊俳句 第459号』 (2016/02/12)
- 【お知らせ】「【短詩時評 第なな回】な譚-榊陽子とみっつの〈な〉を探して-」『BLOG俳句新空間 第31号』 (2015/12/01)
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々のお知らせ