【感想】『セレクション歌人26 東直子集』-読み手を歌い手に変える鍵-
- 2014/04/28
- 22:28
そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています
東直子さんの短歌のひとつの特徴として、語り手が世界に応答した結果、歌をうたわざるをえないような状況に追い込まれ、そこからうたいはじめる、というのがあるようにおもいます。
つまり、なんらかのXから呼びかけられることで、それに呼応するかたちで短歌がとつぜんせり出してくる。
たとえばうえのうたではまさに「そうですか」ではじまるのですが、「そう」を受けるような出来事がこの短歌の前にXとして、または「わたくし」になんらかのことばが発せられ、それをうけての「そうですかきれいでしたかわたくしは」のはずです。
しかし、ここが東さんの短歌のおもしろいところだとおもうんですが、たいていは上の句で呼応からはじまれば、その上の句をコンテクストとして下の句で収束しようとするとおもうんですね。かんたんにいえば、上の句で〈謎〉をつくり、下の句で〈謎解き〉をするような。
でも、いさぎよいほどに〈呼応〉に徹するというのが東さんの短歌のおもしろさだとおもうんです。
つまり、〈ひらかれた〉エリアから上の句がはじまって、〈ひらかれた〉エリアへと下の句がおわっていくわけです。
これはそれまでの短歌のモードにはなかったような、小説的感性でつくられた短歌ではないかとおもうんです。小説的感性とは、短歌としてのテキストそのものの優位よりも、文脈性を重視し、読み手が保有する文脈によって意味生成を行いつづけるテクストとして機能しつづける短歌です。
もうひとつ大事だとおもうのは、〈呼応〉に徹すると書いたのですが、〈呼応〉に徹するということは、一人称主体でありつつ・同時に・二人称主体としても語り手はみずからを位置づけねばならないということです。そういった一人称と二人称を往還する〈呼びかけられた主体〉は、やはり時代や読み手と即応しつつ、そのつどみずからの短歌の意味生成のありかたを変えていくのではないかとおもうのです。
つまり、東直子さんの短歌は、読み手が同時に歌い手(書き手)となってしまうようなおもしろさがあり、それは短歌における読者論的な試みだったのではないかとおもうのです。
おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする
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