あとがきからダイナミックな音信がある(ゆでる)。
- 2014/09/21
- 05:58
抱かれてきんのこな降る街九月 なかはられいこ『川柳作品集 散華詩集』
なかはられいこさんの「きらきらとねこと夕陽と声である」『そらとぶうさぎ』にて、
手紙からダイナミックを取り出して 柳本々々
きらきらを二分茹でろと指示される 〃
の2句を取り上げていただきました。
なかはらさん、ありがとうございました!
〈手紙〉と〈きらきら〉をめぐる了解しがたさ、つかまえにくさ、把持しがたさというのはいつも興味深い主題だなあと思っています。
後でもまたふれたいと思うんですが、「手紙とは到来物です」となかはらさんが述べられているように手紙とは〈やってくる〉もの、〈やってくる〉からこそなにが起こるかわからないものとして存在しているようにおもいます。
だから、手紙とはいつでも〈誤配〉なのではないかとすらおもうのです。それは、〈本〉とおなじで。
構成されたふいうちとして、やってくる〈なにか〉。
ちなみにきらきらを茹でると鍋からむちむちした★がとびだしてくるかもしれないともおもっています。
手紙をゆでるとどうなるんでしょう。でがみ、という毒がでるかもしれません。
君の手紙はいつも速効性の毒 なかはられいこ『川柳作品集 散華詩集』
なかはらさんがブログで紹介もされているのですが、YouTubeで上井とまとさんとなかはられいこさんのラジオが聴くことができます。
『やねうら #32』<本から音信がある>
上井とまと×なかはられいこ(川柳作家)
「本って出しておくと何年ごとにどこかから音信があるんですよ」というこのラジオでお話されているなかはらさんのエピソード、以前なかはらさんのブログで拝見してたときに、とてもステキなエピソードだと思い、すぐに友人に「なかはらさん、こんなことがあったんだって! あの長嶋有さんとね、……」と紹介したんですが、ラジオのタイトルにあるように〈本から音信がある〉という書き手を離れた〈本〉という主体性をめぐるとてもステキな話です。
ネットのことばと違って、〈本〉のいいところっていうのは、情報がパッケージングされて、だれかのもとに〈郵便〉される、もしくは思わぬところや誰かに〈誤配〉されるところにあるんじゃないかと思うんです。
ネットのことばももちろん思わぬ誰かに〈誤配〉されることはあると思うんですが、〈本〉の方が〈ふいうち〉がきちんと組織化されて届くのではないか(ふいうちの組織化)。
つまり、〈本〉の衝撃度とは、〈ふいうち〉がきちんと〈パッケージング〉されたうえでていねいな〈ダイナミック〉として読者に〈配達=誤配〉されてゆくところにあるように思うんです。
たとえば、書店や図書館でふっと手にとったときに、読者にはそのふいうちの情報がどんな情報で・だれが・どこから・どのように発話したものかがすぐにわかるようになっている。だからこそ、読者も〈誤配〉されたものでも〈返信〉がしやすいと思うんです。そもそもが組織化されているから。
だからこそ、なかはらさんのいうところの〈本から音信がある〉ということではないかと思うんです。本という形態そのものが〈音信〉というシステムをつくっているしつくっていくんじゃないか、と。
ちなみにラジオでも話題にのぼっていたことなのですが、句集や歌集を読むことの困難さに、書店や図書館ではなかなかめぐりあえないというものがあります。
どうするか。
これはあくまで〈ローカル〉なひとつの方法になってしまうのですが、国会図書館に行ってしまうという方法がひとつあります。
たとえば私はなかはらさんの『散華詩集』は国会図書館で読みました。
ただもちろん国会図書館にアクセスする困難さがあるのですが、もしアクセスできるならば、ひとつはそのような方法があります。
ふだんからどうしても読みたい句集や歌集は、リスト化しておいて国会図書館に行き、まとめて読んでみるというのもひとつの方法かもしれません。
たしかデリダが、〈届かない手紙(デッドレター)〉はデッドレターで大事なんだ、というようなことをいっていたのですが、今の時代にあって、〈到達しがたい本〉というのもそうした〈読むことの意志〉をみずから組織化する過程においてひとつ大事なような気がします。
実際、私は〈読みたい〉というその一心で、そのプロセスをなんとかどうにかこうにか遂行していくその途上においてめぐりあえた方やことやものがたくさんありました。
もちろん読みたい本がいますぐ読めることに越したことはないと思うのですが、読みたい本がいますぐどうにもこうにも読めなくてそれでもなお読みたい本があることを発見してしまった〈じぶん〉に気がついてしまうこともひとつの〈音信〉なのではないかと思ったりするのです、本からの。
つまり、そうやって誤配された自分から音信がくるのだと。
むしろそうした誤配という届かなさにおいて〈届く〉ということがあらわれてくるのだと。
その届いた音信にはこんなふうに書いてあって、
しんけんににげるときっとつかまるよ なかはられいこ『川柳作品集 散華詩集』
なかはられいこさんの「きらきらとねこと夕陽と声である」『そらとぶうさぎ』にて、
手紙からダイナミックを取り出して 柳本々々
きらきらを二分茹でろと指示される 〃
の2句を取り上げていただきました。
なかはらさん、ありがとうございました!
〈手紙〉と〈きらきら〉をめぐる了解しがたさ、つかまえにくさ、把持しがたさというのはいつも興味深い主題だなあと思っています。
後でもまたふれたいと思うんですが、「手紙とは到来物です」となかはらさんが述べられているように手紙とは〈やってくる〉もの、〈やってくる〉からこそなにが起こるかわからないものとして存在しているようにおもいます。
だから、手紙とはいつでも〈誤配〉なのではないかとすらおもうのです。それは、〈本〉とおなじで。
構成されたふいうちとして、やってくる〈なにか〉。
ちなみにきらきらを茹でると鍋からむちむちした★がとびだしてくるかもしれないともおもっています。
手紙をゆでるとどうなるんでしょう。でがみ、という毒がでるかもしれません。
君の手紙はいつも速効性の毒 なかはられいこ『川柳作品集 散華詩集』
なかはらさんがブログで紹介もされているのですが、YouTubeで上井とまとさんとなかはられいこさんのラジオが聴くことができます。
『やねうら #32』<本から音信がある>
上井とまと×なかはられいこ(川柳作家)
「本って出しておくと何年ごとにどこかから音信があるんですよ」というこのラジオでお話されているなかはらさんのエピソード、以前なかはらさんのブログで拝見してたときに、とてもステキなエピソードだと思い、すぐに友人に「なかはらさん、こんなことがあったんだって! あの長嶋有さんとね、……」と紹介したんですが、ラジオのタイトルにあるように〈本から音信がある〉という書き手を離れた〈本〉という主体性をめぐるとてもステキな話です。
ネットのことばと違って、〈本〉のいいところっていうのは、情報がパッケージングされて、だれかのもとに〈郵便〉される、もしくは思わぬところや誰かに〈誤配〉されるところにあるんじゃないかと思うんです。
ネットのことばももちろん思わぬ誰かに〈誤配〉されることはあると思うんですが、〈本〉の方が〈ふいうち〉がきちんと組織化されて届くのではないか(ふいうちの組織化)。
つまり、〈本〉の衝撃度とは、〈ふいうち〉がきちんと〈パッケージング〉されたうえでていねいな〈ダイナミック〉として読者に〈配達=誤配〉されてゆくところにあるように思うんです。
たとえば、書店や図書館でふっと手にとったときに、読者にはそのふいうちの情報がどんな情報で・だれが・どこから・どのように発話したものかがすぐにわかるようになっている。だからこそ、読者も〈誤配〉されたものでも〈返信〉がしやすいと思うんです。そもそもが組織化されているから。
だからこそ、なかはらさんのいうところの〈本から音信がある〉ということではないかと思うんです。本という形態そのものが〈音信〉というシステムをつくっているしつくっていくんじゃないか、と。
ちなみにラジオでも話題にのぼっていたことなのですが、句集や歌集を読むことの困難さに、書店や図書館ではなかなかめぐりあえないというものがあります。
どうするか。
これはあくまで〈ローカル〉なひとつの方法になってしまうのですが、国会図書館に行ってしまうという方法がひとつあります。
たとえば私はなかはらさんの『散華詩集』は国会図書館で読みました。
ただもちろん国会図書館にアクセスする困難さがあるのですが、もしアクセスできるならば、ひとつはそのような方法があります。
ふだんからどうしても読みたい句集や歌集は、リスト化しておいて国会図書館に行き、まとめて読んでみるというのもひとつの方法かもしれません。
たしかデリダが、〈届かない手紙(デッドレター)〉はデッドレターで大事なんだ、というようなことをいっていたのですが、今の時代にあって、〈到達しがたい本〉というのもそうした〈読むことの意志〉をみずから組織化する過程においてひとつ大事なような気がします。
実際、私は〈読みたい〉というその一心で、そのプロセスをなんとかどうにかこうにか遂行していくその途上においてめぐりあえた方やことやものがたくさんありました。
もちろん読みたい本がいますぐ読めることに越したことはないと思うのですが、読みたい本がいますぐどうにもこうにも読めなくてそれでもなお読みたい本があることを発見してしまった〈じぶん〉に気がついてしまうこともひとつの〈音信〉なのではないかと思ったりするのです、本からの。
つまり、そうやって誤配された自分から音信がくるのだと。
むしろそうした誤配という届かなさにおいて〈届く〉ということがあらわれてくるのだと。
その届いた音信にはこんなふうに書いてあって、
しんけんににげるときっとつかまるよ なかはられいこ『川柳作品集 散華詩集』
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