【短歌】さよならを…(毎日新聞・毎日歌壇 加藤治郎 選2014年9月22日)
- 2014/09/22
- 08:33
さよならをぴるぴる話すきみといた観覧車のある動物園で 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇 加藤治郎 選2014年9月22日)
【きょうからはじめる最終回】
さいきん自分でもわかってきたことなんですが、どうも自分のくみたてることばは〈さよなら〉が多いな、と。
動物か、食べ物か、さよなら、だな、と。
たださいきんもうひとつ思っていたことがあって、それは、短歌というのは、〈さよなら〉をめぐるひとつの作法なのではないか、ということです。
さよならを、最終回といいかえてもいいのですが、最終回って〈おわり〉なんですが、その〈おわり〉がもうひとつの〈はじまり〉につながっていくように〈おわり〉ますよね(たとえば、ヤッターマンの最終回で三悪の別れたさんまたの道がはるかむこうの方でまたひとつの道につながっていたように)。
〈おわり〉という形式のなかには、それがそこで〈中断〉してしまうという形式的な面において、いつもそこからだれでも・なにかを、物語の終わりの続きを〈始める〉ことができてしまうという〈はじまり〉の形式も含んでいるんだと思うんです。
〈はじまり〉だったり〈つづく〉だったりするとだれもその〈つづき〉をはじめられないんだけれども、〈おわり〉=〈最終回〉になったときに、おおきな審級からの意味の備給が終わりを告げたときに、逆説的なんですが、オーディエンスはその〈つづき〉を自由に想像する〈権能〉を得ることができる。
終わりとは、オーディエンスに語り手の権能が移譲されることなのではないかと。
短歌というのは、いっかいいっかいが極端な〈おしまい〉であり、最短の〈最終回〉なんですが、だからこそ、オーディエンスが〈読む〉のはいつでも、その短歌自体もさることながら、終わった短歌のむしろ〈つづき〉を構造化して読んでいるのではないかともおもうんです。未来永劫、絶対に書かれることのない〈つづき〉を。
そして〈つづき〉からまたフィードバックして〈終わっ〉た短歌を構造化していく。
その意味において、短歌はそのいっかいいっかいが〈おしまい〉の形式であり、〈さよなら〉の作法なのかな、とおもいます。
構造化するきっかけは、いつも、〈おわり〉に、〈さよなら〉にある。
たとえば、こうかんがえてみるのがいいかもしれません。
恋人と別れて愛が終わったときに、いままで言語化することが不可能だった愛が、とたんに構造化され、言語化できたのだと。
しかしそのことが同時に愛が〈終わっ〉てもいるのだということを意味してもいるのです。おわったときにひとははじめて構造化できる。終止符とはそうした構造化のはじまりなのです。
だから、うらがえせば、こういうふうにもいえるのです。
はじめることはいつも、非構造のなかに身をつっこんでゆくことなのだと。だとだと。
などなど ぼこぼこ ではでは さっきまで輝いていたお墓がきえた 加藤治郎
(毎日新聞・毎日歌壇 加藤治郎 選2014年9月22日)
【きょうからはじめる最終回】
さいきん自分でもわかってきたことなんですが、どうも自分のくみたてることばは〈さよなら〉が多いな、と。
動物か、食べ物か、さよなら、だな、と。
たださいきんもうひとつ思っていたことがあって、それは、短歌というのは、〈さよなら〉をめぐるひとつの作法なのではないか、ということです。
さよならを、最終回といいかえてもいいのですが、最終回って〈おわり〉なんですが、その〈おわり〉がもうひとつの〈はじまり〉につながっていくように〈おわり〉ますよね(たとえば、ヤッターマンの最終回で三悪の別れたさんまたの道がはるかむこうの方でまたひとつの道につながっていたように)。
〈おわり〉という形式のなかには、それがそこで〈中断〉してしまうという形式的な面において、いつもそこからだれでも・なにかを、物語の終わりの続きを〈始める〉ことができてしまうという〈はじまり〉の形式も含んでいるんだと思うんです。
〈はじまり〉だったり〈つづく〉だったりするとだれもその〈つづき〉をはじめられないんだけれども、〈おわり〉=〈最終回〉になったときに、おおきな審級からの意味の備給が終わりを告げたときに、逆説的なんですが、オーディエンスはその〈つづき〉を自由に想像する〈権能〉を得ることができる。
終わりとは、オーディエンスに語り手の権能が移譲されることなのではないかと。
短歌というのは、いっかいいっかいが極端な〈おしまい〉であり、最短の〈最終回〉なんですが、だからこそ、オーディエンスが〈読む〉のはいつでも、その短歌自体もさることながら、終わった短歌のむしろ〈つづき〉を構造化して読んでいるのではないかともおもうんです。未来永劫、絶対に書かれることのない〈つづき〉を。
そして〈つづき〉からまたフィードバックして〈終わっ〉た短歌を構造化していく。
その意味において、短歌はそのいっかいいっかいが〈おしまい〉の形式であり、〈さよなら〉の作法なのかな、とおもいます。
構造化するきっかけは、いつも、〈おわり〉に、〈さよなら〉にある。
たとえば、こうかんがえてみるのがいいかもしれません。
恋人と別れて愛が終わったときに、いままで言語化することが不可能だった愛が、とたんに構造化され、言語化できたのだと。
しかしそのことが同時に愛が〈終わっ〉てもいるのだということを意味してもいるのです。おわったときにひとははじめて構造化できる。終止符とはそうした構造化のはじまりなのです。
だから、うらがえせば、こういうふうにもいえるのです。
はじめることはいつも、非構造のなかに身をつっこんでゆくことなのだと。だとだと。
などなど ぼこぼこ ではでは さっきまで輝いていたお墓がきえた 加藤治郎
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