【感想】わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる 永井祐
- 2014/09/23
- 06:46
わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる 永井祐
【補助輪から主体を起ちあげる】
永井祐さんの短歌はどこかでいつもある〈過剰さ〉を抱えているように思うんですが、それっていうのは永井さんの短歌にみられる細かな言辞が裏打ちしていくかたちでそうした過剰としての巨大な体系と向かい合うかたちになっているのではないかとおもったりするんです。
たとえばうえの永井さんではよく引用される歌なんですが、この歌の「別に」に注目したいとおもいます。
「わたしは別におしゃれではなく」と語り手は語っているんですが、こうした形式の発話をした場合に、すぐにたちあがってくるのは、「わたしはおしゃれである」ひとたちの集合です。その集合とは「別に」と語り手はいっています。
この短歌が含みこんでいる〈過剰さ〉とはそうした「『わたしはおしゃれである』とわたしを規定しているおしゃれなひとびとの集合体」であり、その〈外〉を志向してつくられているのがこの短歌です。
また、下の句の、「たりして」にも注意してみたいとおもいます。
「地元を撮って暮らしてる」ではありません。「撮ったりして暮らしてる」です。
「たりして」は、「Vたり、Vたりします」という構文であり、ここでは〈撮る〉という行為はほかの行為Xと並列化されています。つまり、語り手にとって写メールは撮ったり撮ったりしなくても、ほかにVたりしてもいいくらいの行為でしかないということです。
ここでも写メールという文化に熱中し絶対化し相対化せず、被写体を飽くなきとりつづける集合体からは逸れています。
こんなふうに永井さんの短歌は、なにか過剰で大きな集合体から逸れることによって、内/外の境界を意識化しながら外へすっと逸れる、そういう短歌なのではないかと思います。
つまりあえていうならば、ここで短歌の主題としてもちあがっているのは、〈わたし〉でも、〈他者〉でも、〈システム〉でもなくて、そうしたもろもろの概念規定からすっと〈逸れるわたし〉のありかた、むしろ規定しえない逸らされつづけるわたしのありかたのようにおもいます。
ただここで大事だと思うのは、〈逸れるわたし〉が、ことばによって、細かい言辞=ことばづかいによって起ち上がってくるものである、ということです。
〈わたし〉という主体が、行為や概念や名詞や規定や選択や決定によってたちあがってゆくのではなく、細かなことばづかいによってたちがあってゆくこと、(かつて斉藤斎藤さんも永井さんの助辞について言及していましたが)助詞や助動詞によって〈わたし〉の主体がたちあげられてしまうこと。
そうした様相を描き出してしまったのが永井さんの短歌のおもしろさなのではないかとおもうのです。
僕に来たメールに僕は返信をその文体をまねして書いた 永井祐
【補助輪から主体を起ちあげる】
永井祐さんの短歌はどこかでいつもある〈過剰さ〉を抱えているように思うんですが、それっていうのは永井さんの短歌にみられる細かな言辞が裏打ちしていくかたちでそうした過剰としての巨大な体系と向かい合うかたちになっているのではないかとおもったりするんです。
たとえばうえの永井さんではよく引用される歌なんですが、この歌の「別に」に注目したいとおもいます。
「わたしは別におしゃれではなく」と語り手は語っているんですが、こうした形式の発話をした場合に、すぐにたちあがってくるのは、「わたしはおしゃれである」ひとたちの集合です。その集合とは「別に」と語り手はいっています。
この短歌が含みこんでいる〈過剰さ〉とはそうした「『わたしはおしゃれである』とわたしを規定しているおしゃれなひとびとの集合体」であり、その〈外〉を志向してつくられているのがこの短歌です。
また、下の句の、「たりして」にも注意してみたいとおもいます。
「地元を撮って暮らしてる」ではありません。「撮ったりして暮らしてる」です。
「たりして」は、「Vたり、Vたりします」という構文であり、ここでは〈撮る〉という行為はほかの行為Xと並列化されています。つまり、語り手にとって写メールは撮ったり撮ったりしなくても、ほかにVたりしてもいいくらいの行為でしかないということです。
ここでも写メールという文化に熱中し絶対化し相対化せず、被写体を飽くなきとりつづける集合体からは逸れています。
こんなふうに永井さんの短歌は、なにか過剰で大きな集合体から逸れることによって、内/外の境界を意識化しながら外へすっと逸れる、そういう短歌なのではないかと思います。
つまりあえていうならば、ここで短歌の主題としてもちあがっているのは、〈わたし〉でも、〈他者〉でも、〈システム〉でもなくて、そうしたもろもろの概念規定からすっと〈逸れるわたし〉のありかた、むしろ規定しえない逸らされつづけるわたしのありかたのようにおもいます。
ただここで大事だと思うのは、〈逸れるわたし〉が、ことばによって、細かい言辞=ことばづかいによって起ち上がってくるものである、ということです。
〈わたし〉という主体が、行為や概念や名詞や規定や選択や決定によってたちあがってゆくのではなく、細かなことばづかいによってたちがあってゆくこと、(かつて斉藤斎藤さんも永井さんの助辞について言及していましたが)助詞や助動詞によって〈わたし〉の主体がたちあげられてしまうこと。
そうした様相を描き出してしまったのが永井さんの短歌のおもしろさなのではないかとおもうのです。
僕に来たメールに僕は返信をその文体をまねして書いた 永井祐
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