【感想】枕元に眼鏡と靴と携帯を置いて眠れば現実の如し 穂村弘
- 2014/09/25
- 12:20
枕元に眼鏡と靴と携帯を置いて眠れば現実の如し 穂村弘
【覚醒する夢】
穂村さんの〈震災詠〉として読まれている短歌です。
この結句の、「現実の如し」っていうのは、決まり文句化されている「夢の如し」の反語としてあるんではないかと思うんです。
「まるで夢みたいだ」を「まるで現実みたいだ」とあえてひっくりかえすことによって、いまある〈現実〉と、さらにそこに〈ことばで構成される現実〉を重ね書きすることによって、現実が〈現実〉でありながらも、現実でない現実的ありかたも含みもっている。つまり今まで体験したことがなかったようなもうひとつ次元がちがう〈現実〉もここには含まれているのではないかということです。
だからそれはある意味、多重化された現実だから「現実の如し」というしかないのだけれども、でもそういった瞬間、「現実」は「夢」にはなりえずどこまでいっても「現実」しかない、現実が現実を相互参照していくようなそういう現実地獄のような場所があらわれてくる。
でもこの語り手にとって、ふいに起こった〈現実〉を描写するにはそうした鏡合わせの現実しかなかったのではないか。
枕元に置かれた「眼鏡と靴と携帯」が象徴的だと思っていて、ここでは「眼鏡」が〈視覚〉を、「靴」が〈行動=触覚〉を、「携帯」が〈声=発話=ことば〉をあらわしているのではないかとおもいます。
みる・うごく・話すという〈現実〉を構成し起ち上げるための三点セットが、語り手は眠っているので、枕元に機能しないかたちで並べて置かれることで、やはり語り手がそれまで経験しなかった〈現実〉を語り手が与しないかたちで、眼鏡をかけも、靴をはきも、携帯に話しかけもしないかたちで〈現実〉をつくりはじめてしまう。
ここにもそうした枕元に置かれたふだん使っているモノによって〈現実〉がたちあげられてしまうような現実が現実を参照していく相互作用のありかたがあるんじゃないかと思いました。
〈震災詠〉を考える際に、ひとつ問題になってくるのは、語り手が感じている〈現実〉がどのレベルで感じられていて、そしてそれがどのように共有しうる/されえないのか、という〈現実〉がひとつに収束できないようなそれぞれが受け持つ〈現実〉としての〈現実〉なのではないかとおもうんです。
穂村さんの歌を読みながら、そうした語り手がどのようにみずからの〈現実〉を構成するのか、もしくはできないことをできないこととして構成するのか、という課題を感じました。
なにひとつ変わっていない別世界 あなたにもチェルシーあげたい 穂村弘
文学において自分が「当事者」かそうでないか、ということを決めるのは、どこに住んでいるかなどのことではなく、自分が何に対してコミットメント(関与)したいか、という意思が決定するものだと思うのである。 吉川宏志「当事者と少数者」『短歌年鑑平成24年』
【覚醒する夢】
穂村さんの〈震災詠〉として読まれている短歌です。
この結句の、「現実の如し」っていうのは、決まり文句化されている「夢の如し」の反語としてあるんではないかと思うんです。
「まるで夢みたいだ」を「まるで現実みたいだ」とあえてひっくりかえすことによって、いまある〈現実〉と、さらにそこに〈ことばで構成される現実〉を重ね書きすることによって、現実が〈現実〉でありながらも、現実でない現実的ありかたも含みもっている。つまり今まで体験したことがなかったようなもうひとつ次元がちがう〈現実〉もここには含まれているのではないかということです。
だからそれはある意味、多重化された現実だから「現実の如し」というしかないのだけれども、でもそういった瞬間、「現実」は「夢」にはなりえずどこまでいっても「現実」しかない、現実が現実を相互参照していくようなそういう現実地獄のような場所があらわれてくる。
でもこの語り手にとって、ふいに起こった〈現実〉を描写するにはそうした鏡合わせの現実しかなかったのではないか。
枕元に置かれた「眼鏡と靴と携帯」が象徴的だと思っていて、ここでは「眼鏡」が〈視覚〉を、「靴」が〈行動=触覚〉を、「携帯」が〈声=発話=ことば〉をあらわしているのではないかとおもいます。
みる・うごく・話すという〈現実〉を構成し起ち上げるための三点セットが、語り手は眠っているので、枕元に機能しないかたちで並べて置かれることで、やはり語り手がそれまで経験しなかった〈現実〉を語り手が与しないかたちで、眼鏡をかけも、靴をはきも、携帯に話しかけもしないかたちで〈現実〉をつくりはじめてしまう。
ここにもそうした枕元に置かれたふだん使っているモノによって〈現実〉がたちあげられてしまうような現実が現実を参照していく相互作用のありかたがあるんじゃないかと思いました。
〈震災詠〉を考える際に、ひとつ問題になってくるのは、語り手が感じている〈現実〉がどのレベルで感じられていて、そしてそれがどのように共有しうる/されえないのか、という〈現実〉がひとつに収束できないようなそれぞれが受け持つ〈現実〉としての〈現実〉なのではないかとおもうんです。
穂村さんの歌を読みながら、そうした語り手がどのようにみずからの〈現実〉を構成するのか、もしくはできないことをできないこととして構成するのか、という課題を感じました。
なにひとつ変わっていない別世界 あなたにもチェルシーあげたい 穂村弘
文学において自分が「当事者」かそうでないか、ということを決めるのは、どこに住んでいるかなどのことではなく、自分が何に対してコミットメント(関与)したいか、という意思が決定するものだと思うのである。 吉川宏志「当事者と少数者」『短歌年鑑平成24年』
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