【短歌】ぼくよりも…(「うたう☆クラブ」『短歌研究』2014/3 ★付き・斉藤斎藤 選)
- 2014/04/29
- 18:01
ぼくよりもとなりにすわる思い出がきみのひだりにとてもくわしい 柳本々々
(「うたう☆クラブ」『短歌研究』2014/3 ★付き・斉藤斎藤 選)
【自(分で)解(いてみる)-柳本栁本という主体 -】
短歌っていうのは、短歌の構造そのものの性質として、〈右〉や〈左〉という位置性そのものに敏感になりやすいんじゃないかってときどきおもうことがあるんです。
で、なんでそんなふうなことをかんがえたかというと、そこには短歌をめぐる〈視点〉の問題、もっといえば語り手の〈焦点化〉の問題があるようにおもいます。
短歌というのはあくまでひとつの視座から、ひとつの焦点でもってうたうわけで、だからどこかにじぶんの位置性をもってうたわなければならないという〈身体性〉と密接に関連したこころみであるとおもうんです。
たとえば、夏目漱石の「断片」にこんなことばがあります。
2個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける2法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。
ひとつの短歌をうたうためには、どうしてもひとつの視座を確保しなければならず、しかしその確保した瞬間、その視座は受肉され、そこから動くことはかなわなくなるということ。
しかし、だからこそ、受肉化された視座から確定される、上下左右になみなみならぬ意味性がでてくるということ。
それが短歌におけるひとつのモードとしてあるのではないかとおもうのです。
ただそのモードをゆらしているひとがいて、それが斉藤斎藤さんの短歌なのではないかとおもうんです。次のうたをみてみてください。
ひるねからわたしだけめざめてみると右に昼寝をしてるわたくし
この「わたくし」はさまざまなふうに解釈できるとおもうんですが、わたしはこのうたは、「わたくし」とはいったい誰であるのかという内実よりも、「わたし/わたくし」という差異化が大事なのではないかとおもうんです。
「めざめ」たそのせつな「わたし」に語り手は焦点化しているわけですが、その焦点化した結果、たちあげられたのは「右に昼寝をしてるわたくし」です。
「わたし」に焦点化させたそのせつな、「右」に「わたくし」があらわれているということ。ここで〈視座〉はあきらかに攪乱しています。しかしその攪乱という視座の脱臼こそが、斉藤斎藤さんの短歌におけるあたらしい視座のモードのありかただったのではないかとおもうのです。
ちなみにこの視座の攪乱のモードのありかたは、斉藤斎藤さんの名前にも象徴的にあらわれているようにおもいます。
斉藤という「わたし」の名字が駆動したその瞬間に、「わたし」=斉藤でありつつも、「わたし」=斉藤という表記からぶれる「わたくし」=斎藤がたちあがるわけです。
斉藤斎藤さんの短歌は〈脱力系〉短歌と呼称されることも一時期あったようなんですが、では、なにに対して〈力〉を〈脱〉臼させたのかをかんがえてみるならば、それは短歌における〈視座〉だったのではないかとおもうのです。
語り手が焦点化したせつな、その焦点を攪乱するようにあらたに立ち上がるもうひとつの焦点。
それが斉藤斎藤さんの短歌のひとつのおもしろさであるようなきがするのです。
(「うたう☆クラブ」『短歌研究』2014/3 ★付き・斉藤斎藤 選)
【自(分で)解(いてみる)-柳本栁本という主体 -】
短歌っていうのは、短歌の構造そのものの性質として、〈右〉や〈左〉という位置性そのものに敏感になりやすいんじゃないかってときどきおもうことがあるんです。
で、なんでそんなふうなことをかんがえたかというと、そこには短歌をめぐる〈視点〉の問題、もっといえば語り手の〈焦点化〉の問題があるようにおもいます。
短歌というのはあくまでひとつの視座から、ひとつの焦点でもってうたうわけで、だからどこかにじぶんの位置性をもってうたわなければならないという〈身体性〉と密接に関連したこころみであるとおもうんです。
たとえば、夏目漱石の「断片」にこんなことばがあります。
2個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける2法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。
ひとつの短歌をうたうためには、どうしてもひとつの視座を確保しなければならず、しかしその確保した瞬間、その視座は受肉され、そこから動くことはかなわなくなるということ。
しかし、だからこそ、受肉化された視座から確定される、上下左右になみなみならぬ意味性がでてくるということ。
それが短歌におけるひとつのモードとしてあるのではないかとおもうのです。
ただそのモードをゆらしているひとがいて、それが斉藤斎藤さんの短歌なのではないかとおもうんです。次のうたをみてみてください。
ひるねからわたしだけめざめてみると右に昼寝をしてるわたくし
この「わたくし」はさまざまなふうに解釈できるとおもうんですが、わたしはこのうたは、「わたくし」とはいったい誰であるのかという内実よりも、「わたし/わたくし」という差異化が大事なのではないかとおもうんです。
「めざめ」たそのせつな「わたし」に語り手は焦点化しているわけですが、その焦点化した結果、たちあげられたのは「右に昼寝をしてるわたくし」です。
「わたし」に焦点化させたそのせつな、「右」に「わたくし」があらわれているということ。ここで〈視座〉はあきらかに攪乱しています。しかしその攪乱という視座の脱臼こそが、斉藤斎藤さんの短歌におけるあたらしい視座のモードのありかただったのではないかとおもうのです。
ちなみにこの視座の攪乱のモードのありかたは、斉藤斎藤さんの名前にも象徴的にあらわれているようにおもいます。
斉藤という「わたし」の名字が駆動したその瞬間に、「わたし」=斉藤でありつつも、「わたし」=斉藤という表記からぶれる「わたくし」=斎藤がたちあがるわけです。
斉藤斎藤さんの短歌は〈脱力系〉短歌と呼称されることも一時期あったようなんですが、では、なにに対して〈力〉を〈脱〉臼させたのかをかんがえてみるならば、それは短歌における〈視座〉だったのではないかとおもうのです。
語り手が焦点化したせつな、その焦点を攪乱するようにあらたに立ち上がるもうひとつの焦点。
それが斉藤斎藤さんの短歌のひとつのおもしろさであるようなきがするのです。
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