【感想】すこし死ぬプールの縁に肘をのせ 西原天気
- 2014/09/26
- 11:45
すこし死ぬプールの縁に肘をのせ 西原天気
【プールでさよならをいうことは、少しだけ死ぬこと】
コール・ポーターの「Everytime we say goodbye」に、“Ev'rytime we say goodbye I die a little”という歌詞があるんですが、これはアニメのシンプソンズでサイドショー・ボブが子ども向け教育番組でダンテの『神曲』を朗読しおえたあとにも少し編曲されたかたちで歌っていました。
さよならをいうたびに、すこしだけ死ぬ、と。
レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』にも、“To say good-bye is to die a little.”と、さよならをいうことは、少しだけ死ぬことだ、という有名な一文があります。
歌詞や小説にみられる「すこし死ぬ」は、〈さよなら〉をめぐって、相手の喪失が、じぶんの生きる主体の損失につながっていくという二者関係からの「死ぬ」だと思うんですが、西原さんのこの句の語り手は、「プールの縁に肘をのせ」ている状態なので、語り手の身体の記述はしてあるんですが、語り手が現在どういった心境にあるかはまったくわかりません。
そもそも俳句は心境を語らないことによって語る/語らない表現形態だと思うんですが、「すこし死ぬ」という感傷的で対他的にいろどられた文句が、俳句のなかに埋め込みなおされることによって〈さよなら〉としてのセンチメンタルが脱臭されて、ほんとうに、語り手の生命が、身体が、「すこし死」んでいっている様子を描いているようにも、思います。
もちろん、文脈として、「すこし死ぬ」の系譜のなかにおいて、語り手は〈さよなら〉を経験して、いまプールにいて、縁にひじをついているのかもしれませんが、しかしやはり注目したいのは、「すこし死ぬ」と発話されたあとの身体のありようです。
いま、語り手は、どのような身体状況にいるのか。
どこ、にいるのか。
プールの〈縁〉にいることによって、プールとプールサイドの境界に語り手は身をおいています。
それからひじを縁にのせることによって、自らの重力をそのプールサイドにいくらかは預けている。
そして最後に、縁にひじをのせているということは、半身は水中のなかであり、半身は水上にある。
こうした、みっつの境界上にいま、語り手の身体は決定づかないかたちで浮遊している。
この身体の漂泊のありよう、みずから身体の主導権を握っているわけではなく、それは、プールが、からだを預けたプールサイドが、からだをゆらす水の質料が、身体を決めているそのありようが、語り手にとっては「すこし死ぬ」なのでないか、と。
すこし想像してみると、プールというのは、みずからの身体のコントロールを喪う場所としても存在しています。ふだん抱いていた身体感覚に〈さよなら〉し、それまでの身体感覚が〈すこしだけ死ぬ〉こと。
そうしたプールという身体的ロング・グッドバイが引き起こされる場において、「すこし死」んだこと。
なにが? からだが、主体が、“To say good-bye is to die a little.” の系譜が。
それがこの句のひとつの〈さよなら〉をめぐる面白さなのではないかとおもうのです。
ハンカチを干していろんなさやうなら 西原天気
さよならを言った。タクシーが去っていくのを私は見まもっていた。階段を上がって家に戻り、ベッドルームに行ってシーツをそっくりはがし、セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。みぞおちに鉛のかたまりのようなものがあった。
フランス人はこんな場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼにはまる。
さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』
誰かぼくに愛する人をください。毎朝起きるたびに少しずつぼくは死んでいるんだ。もはや自分の足で立つことさえもかなわない。
Can anybody find be somebody to love? Each morning I get up I die a little Can barely stand on my feet
クイーン(Queen)“Somebody To Love(愛にすべてを)”
【プールでさよならをいうことは、少しだけ死ぬこと】
コール・ポーターの「Everytime we say goodbye」に、“Ev'rytime we say goodbye I die a little”という歌詞があるんですが、これはアニメのシンプソンズでサイドショー・ボブが子ども向け教育番組でダンテの『神曲』を朗読しおえたあとにも少し編曲されたかたちで歌っていました。
さよならをいうたびに、すこしだけ死ぬ、と。
レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』にも、“To say good-bye is to die a little.”と、さよならをいうことは、少しだけ死ぬことだ、という有名な一文があります。
歌詞や小説にみられる「すこし死ぬ」は、〈さよなら〉をめぐって、相手の喪失が、じぶんの生きる主体の損失につながっていくという二者関係からの「死ぬ」だと思うんですが、西原さんのこの句の語り手は、「プールの縁に肘をのせ」ている状態なので、語り手の身体の記述はしてあるんですが、語り手が現在どういった心境にあるかはまったくわかりません。
そもそも俳句は心境を語らないことによって語る/語らない表現形態だと思うんですが、「すこし死ぬ」という感傷的で対他的にいろどられた文句が、俳句のなかに埋め込みなおされることによって〈さよなら〉としてのセンチメンタルが脱臭されて、ほんとうに、語り手の生命が、身体が、「すこし死」んでいっている様子を描いているようにも、思います。
もちろん、文脈として、「すこし死ぬ」の系譜のなかにおいて、語り手は〈さよなら〉を経験して、いまプールにいて、縁にひじをついているのかもしれませんが、しかしやはり注目したいのは、「すこし死ぬ」と発話されたあとの身体のありようです。
いま、語り手は、どのような身体状況にいるのか。
どこ、にいるのか。
プールの〈縁〉にいることによって、プールとプールサイドの境界に語り手は身をおいています。
それからひじを縁にのせることによって、自らの重力をそのプールサイドにいくらかは預けている。
そして最後に、縁にひじをのせているということは、半身は水中のなかであり、半身は水上にある。
こうした、みっつの境界上にいま、語り手の身体は決定づかないかたちで浮遊している。
この身体の漂泊のありよう、みずから身体の主導権を握っているわけではなく、それは、プールが、からだを預けたプールサイドが、からだをゆらす水の質料が、身体を決めているそのありようが、語り手にとっては「すこし死ぬ」なのでないか、と。
すこし想像してみると、プールというのは、みずからの身体のコントロールを喪う場所としても存在しています。ふだん抱いていた身体感覚に〈さよなら〉し、それまでの身体感覚が〈すこしだけ死ぬ〉こと。
そうしたプールという身体的ロング・グッドバイが引き起こされる場において、「すこし死」んだこと。
なにが? からだが、主体が、“To say good-bye is to die a little.” の系譜が。
それがこの句のひとつの〈さよなら〉をめぐる面白さなのではないかとおもうのです。
ハンカチを干していろんなさやうなら 西原天気
さよならを言った。タクシーが去っていくのを私は見まもっていた。階段を上がって家に戻り、ベッドルームに行ってシーツをそっくりはがし、セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。みぞおちに鉛のかたまりのようなものがあった。
フランス人はこんな場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼにはまる。
さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ。
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』
誰かぼくに愛する人をください。毎朝起きるたびに少しずつぼくは死んでいるんだ。もはや自分の足で立つことさえもかなわない。
Can anybody find be somebody to love? Each morning I get up I die a little Can barely stand on my feet
クイーン(Queen)“Somebody To Love(愛にすべてを)”
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