【感想】たろうさんたろうさんとぼくを呼ぶ義父母に鬱を告げ得ず二年 染野太朗
- 2014/09/27
- 07:21
たろうさんたろうさんとぼくを呼ぶ義父母に鬱を告げ得ず二年 染野太朗
ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ
君でなきひとに会うにもバス停にひかり浴びつつ待たねばならぬ
【非たろうさん、非たろうさん】
私が感じている染野さんの短歌の面白さに、〈呼びかけの不発〉というものがあります。
呼びかけられたそのときに、呼びかけられたものが応答できずに、奇妙な真空地帯が発生してしまう。
これは、もはや〈名乗れ〉なくなっている、もしくは〈名乗る〉こと、〈呼びかけられる〉ことがアイデンティティの形成にならなくなってしまっているような現在の状況とリンクしているのではないかともおもうのです。
「わたしは、~だ!」、「あなたは、~だ!」と名乗ったときに、同じわたしやあなたが応答するのではなくて、ググればそれを補完し、代替しさえするような〈非わたし的わたし〉や〈非あなた的あなた〉が先行して答えてしまうような状況。
そうした、〈名前の彷徨〉、〈呼びかけの漂流〉。
具体的に、みてみます。
一首目に語り手は、「たろうさんたろうさん」と呼びかけられています。
呼びかけられたときに語り手が自らを規定するのは、義父母が呼びかけている「たろうさん」ではなく、義父母が規定しえていない「鬱を告げ得ず二年」である〈非たろうさん〉です。
ここでは、呼びかけられることによって逆に漂流しなければならなくなる事態が発生しています。
そしておそらくはその漂流者たちは、ググった先におびただしく列をなして行進していることも大事です。
呼びかけられ漂流し「鬱を告げ得ず二年」は、〈固有性〉ではありません。非たろうさんは、Googleのなかで増殖しているし、これからもますますうごめいてくる。
この短歌には、そのような語り手が呼びかけられてしまったことの〈こわさ〉があります。怖さ、でもあり、強(こわ)さ、でもあります。
2首目は、語り手が掃除機にこちらから呼びかけています。でも、掃除機はきません。
この歌がおもしろいのは、呼びかけが無機質にむけて行われているにもかかわらず、それを語り手が結句で「これは孤独だ」と自ら有機的内面として規定していくことです。
〈それが孤独〉なら語り手ははじめから孤独なはずです。なにしろ掃除機です。
でもその掃除機によって語り手は孤独に気づいてしまう。
ここには、呼びかけることの錯綜が現れています。
三首目は、染野さんのよく引用される歌です。
ここで語り手が呼びかけられているのは、カノンとしての「君に会うためにバスに乗るね」という恋愛公式だと思います。
そうした恋愛公式に応答するかたちで、「君に会わないためのバス」を描き出している。
そうした語り手が使命感をもたない、呼びかけられない時間枠に、逆に呼びかけられた使命感「ねばならぬ」を見出していること。
ここにも、呼びかけの倒錯があります。
こんなふうに、染野さんの面白さのひとつとして、語り手がいかに呼びかけの迷路のなかで右往左往しながらも短歌として定式化し、新しい呼びかけの公式をつくっていけるか、があるようにおもうのです。
ですから、あれ、呼びかけられてないな、と語り手が思って、みずからおもむけば、こんな思わぬ〈濡らす応答〉も、あるのです。
呼びかけられる、のではなく、呼びかけること。鼻、から。
超音波式加湿器のしずけさに鼻近づけて鼻を濡らしぬ 染野太朗
ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ
君でなきひとに会うにもバス停にひかり浴びつつ待たねばならぬ
【非たろうさん、非たろうさん】
私が感じている染野さんの短歌の面白さに、〈呼びかけの不発〉というものがあります。
呼びかけられたそのときに、呼びかけられたものが応答できずに、奇妙な真空地帯が発生してしまう。
これは、もはや〈名乗れ〉なくなっている、もしくは〈名乗る〉こと、〈呼びかけられる〉ことがアイデンティティの形成にならなくなってしまっているような現在の状況とリンクしているのではないかともおもうのです。
「わたしは、~だ!」、「あなたは、~だ!」と名乗ったときに、同じわたしやあなたが応答するのではなくて、ググればそれを補完し、代替しさえするような〈非わたし的わたし〉や〈非あなた的あなた〉が先行して答えてしまうような状況。
そうした、〈名前の彷徨〉、〈呼びかけの漂流〉。
具体的に、みてみます。
一首目に語り手は、「たろうさんたろうさん」と呼びかけられています。
呼びかけられたときに語り手が自らを規定するのは、義父母が呼びかけている「たろうさん」ではなく、義父母が規定しえていない「鬱を告げ得ず二年」である〈非たろうさん〉です。
ここでは、呼びかけられることによって逆に漂流しなければならなくなる事態が発生しています。
そしておそらくはその漂流者たちは、ググった先におびただしく列をなして行進していることも大事です。
呼びかけられ漂流し「鬱を告げ得ず二年」は、〈固有性〉ではありません。非たろうさんは、Googleのなかで増殖しているし、これからもますますうごめいてくる。
この短歌には、そのような語り手が呼びかけられてしまったことの〈こわさ〉があります。怖さ、でもあり、強(こわ)さ、でもあります。
2首目は、語り手が掃除機にこちらから呼びかけています。でも、掃除機はきません。
この歌がおもしろいのは、呼びかけが無機質にむけて行われているにもかかわらず、それを語り手が結句で「これは孤独だ」と自ら有機的内面として規定していくことです。
〈それが孤独〉なら語り手ははじめから孤独なはずです。なにしろ掃除機です。
でもその掃除機によって語り手は孤独に気づいてしまう。
ここには、呼びかけることの錯綜が現れています。
三首目は、染野さんのよく引用される歌です。
ここで語り手が呼びかけられているのは、カノンとしての「君に会うためにバスに乗るね」という恋愛公式だと思います。
そうした恋愛公式に応答するかたちで、「君に会わないためのバス」を描き出している。
そうした語り手が使命感をもたない、呼びかけられない時間枠に、逆に呼びかけられた使命感「ねばならぬ」を見出していること。
ここにも、呼びかけの倒錯があります。
こんなふうに、染野さんの面白さのひとつとして、語り手がいかに呼びかけの迷路のなかで右往左往しながらも短歌として定式化し、新しい呼びかけの公式をつくっていけるか、があるようにおもうのです。
ですから、あれ、呼びかけられてないな、と語り手が思って、みずからおもむけば、こんな思わぬ〈濡らす応答〉も、あるのです。
呼びかけられる、のではなく、呼びかけること。鼻、から。
超音波式加湿器のしずけさに鼻近づけて鼻を濡らしぬ 染野太朗
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