【感想】美しい田舎 どんどんブスになる私 墓石屋の望遠鏡 北山あさひ
- 2014/09/27
- 09:18
美しい田舎 どんどんブスになる私 墓石屋の望遠鏡 北山あさひ
【望遠鏡から覗く素晴らしきこの世界】
「墓石屋の望遠鏡」という狂った方向感覚がポイントになるのかなと思ったんですが、墓石屋に望遠鏡があっても意味がないという対立と、美しい田舎でどんどんブスになる私の対立が重ねられているのかなと思うんです。
だから、〈「美しい田舎」≒「墓石屋」〉の〈「どんどんブスになる私」≒「望遠鏡」〉です。
もしそういう図式でこの短歌が読めるとするならば、美しい田舎、墓石屋、整えられてゆく死に場所というイメージはなんとなく連なりそうなんですが、どんどんブスになる私と望遠鏡の連絡づけが面白そうです。
望遠鏡っていうのは、視る主体がいて、けれどもその視る主体が望遠鏡を媒介にして、超越的に場所を超えてはるかかなたを視ることのできる視線をハイパー化できるメディアですよね。
だから、語り手は「どんどんブスになる私」といいながらも、世界の視つめ方によってハイパー化し、いま・ここという場所をこえて超域化しているんじゃないかなとも思うんです。
それがこの短歌の強度なんじゃないかと。
田舎が美しくなるってことは、場所が強度をもっていくということでもあるし、おそらくブスというのも主体の強度をあげていくことである。墓石屋も、わたしの死の強度を画定するものです。
でも、望遠鏡だけが、ちがう。
望遠鏡は、視線の強度をあげることで、わたしのもつ視線の強度をぎゃくに脱臼するちからをもっている。
だからこの短歌では、望遠鏡がこの短歌のもつ方向感覚を狂わせ、そしてその狂度によって強度をあげているのではないかとおもうのです。
少しだけ怖い そうだね 薄闇に影を失くしてすべすべだ町 北山あさひ
【望遠鏡から覗く素晴らしきこの世界】
「墓石屋の望遠鏡」という狂った方向感覚がポイントになるのかなと思ったんですが、墓石屋に望遠鏡があっても意味がないという対立と、美しい田舎でどんどんブスになる私の対立が重ねられているのかなと思うんです。
だから、〈「美しい田舎」≒「墓石屋」〉の〈「どんどんブスになる私」≒「望遠鏡」〉です。
もしそういう図式でこの短歌が読めるとするならば、美しい田舎、墓石屋、整えられてゆく死に場所というイメージはなんとなく連なりそうなんですが、どんどんブスになる私と望遠鏡の連絡づけが面白そうです。
望遠鏡っていうのは、視る主体がいて、けれどもその視る主体が望遠鏡を媒介にして、超越的に場所を超えてはるかかなたを視ることのできる視線をハイパー化できるメディアですよね。
だから、語り手は「どんどんブスになる私」といいながらも、世界の視つめ方によってハイパー化し、いま・ここという場所をこえて超域化しているんじゃないかなとも思うんです。
それがこの短歌の強度なんじゃないかと。
田舎が美しくなるってことは、場所が強度をもっていくということでもあるし、おそらくブスというのも主体の強度をあげていくことである。墓石屋も、わたしの死の強度を画定するものです。
でも、望遠鏡だけが、ちがう。
望遠鏡は、視線の強度をあげることで、わたしのもつ視線の強度をぎゃくに脱臼するちからをもっている。
だからこの短歌では、望遠鏡がこの短歌のもつ方向感覚を狂わせ、そしてその狂度によって強度をあげているのではないかとおもうのです。
少しだけ怖い そうだね 薄闇に影を失くしてすべすべだ町 北山あさひ
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