【感想】さやうなら煙のやうに日のやうに眠りにおちるやうに消えるよ 小池純代
- 2014/09/28
- 13:19
さやうなら煙のやうに日のやうに眠りにおちるやうに消えるよ 小池純代
【即席のプロフェッショナルに私はなれる】
小池純代さんの短歌にはいつも不思議なことばの風合いがあるんですが、その不思議さをうむ仕掛けにひとつは〈歴史的仮名遣い〉が効果的にたちあらわれてくることがあるのではないかと思うんです。
歴史的仮名遣いを〈いま〉眼にするときに感受するのは、ことばの〈ブレ〉、ことばが意味に還元されない質感ではないかと思うんです。
たとえば、歴史的仮名遣いのふしぎな質感を詠んだ句に、西原天気さんのこんな歌をあげることができるようにおもいます。
八月ははちぐわつと書く旧仮名を使ふ人には常識である 西原天気
ここでわたしたちがであうのは、八月でもあると同時に「はちぐわつ」でもあります。「はちぐわつ」は、時間としての八月という意味に還元されないことばの質感であり、なめらかに発音できないからこそわたしたちが使いそこねてしまうような自律することばの異和のようなものではないかと思います。
小池さんの上の歌には「やう」がリフレインされています。「さようなら」の歌でありながら、そこには「さようなら」という意味には還元できない〈やう〉の系譜がかたちづくられていきます。
この歌がはじまって終わるまでに、「やう」は四回繰り返されます。それぞれの「やう」にはそれぞれの意味生成の役割がありますが、しかし歴史的仮名遣いはそれら意味に還元されずに堆積されていきます。
その堆積によって、わたしたちはインスタントな即席の〈やう〉のプロフェッショナルになっているのではないか。
それが、小池さんの歌のもつ不思議さなのではないかと思うんです。
西原さんの歌の結句にいみじくも「常識である」と歌われているように、歴史的仮名遣いには不思議な〈知の位階〉があります。知っているひとと知らないひと、使えるひとと使えないひとの位相です。
だからこそ知らない/つかえないひととっては「はちぐわつ」はモンタラスで不気味な感じがします。
小池さんの歌に反復された「やう」は、ふだん使いはしないものの、非常に〈現代的ことばづかい〉の流れのなかで歴史的仮名遣いとして多用されています。
だから、わたしたちは、〈やう〉になじみきれないままに、そのなじみきれなさになじんでしまうのではないか。
それが、〈やう〉のプロになるということ。短歌というリニアなベクトルがもつ〈感情教育〉としての不思議な質感なのではないかと思うんです。
みづうみのみづをみにゆく空いろをそのままうつすみづをみにゆく 小池純代
【即席のプロフェッショナルに私はなれる】
小池純代さんの短歌にはいつも不思議なことばの風合いがあるんですが、その不思議さをうむ仕掛けにひとつは〈歴史的仮名遣い〉が効果的にたちあらわれてくることがあるのではないかと思うんです。
歴史的仮名遣いを〈いま〉眼にするときに感受するのは、ことばの〈ブレ〉、ことばが意味に還元されない質感ではないかと思うんです。
たとえば、歴史的仮名遣いのふしぎな質感を詠んだ句に、西原天気さんのこんな歌をあげることができるようにおもいます。
八月ははちぐわつと書く旧仮名を使ふ人には常識である 西原天気
ここでわたしたちがであうのは、八月でもあると同時に「はちぐわつ」でもあります。「はちぐわつ」は、時間としての八月という意味に還元されないことばの質感であり、なめらかに発音できないからこそわたしたちが使いそこねてしまうような自律することばの異和のようなものではないかと思います。
小池さんの上の歌には「やう」がリフレインされています。「さようなら」の歌でありながら、そこには「さようなら」という意味には還元できない〈やう〉の系譜がかたちづくられていきます。
この歌がはじまって終わるまでに、「やう」は四回繰り返されます。それぞれの「やう」にはそれぞれの意味生成の役割がありますが、しかし歴史的仮名遣いはそれら意味に還元されずに堆積されていきます。
その堆積によって、わたしたちはインスタントな即席の〈やう〉のプロフェッショナルになっているのではないか。
それが、小池さんの歌のもつ不思議さなのではないかと思うんです。
西原さんの歌の結句にいみじくも「常識である」と歌われているように、歴史的仮名遣いには不思議な〈知の位階〉があります。知っているひとと知らないひと、使えるひとと使えないひとの位相です。
だからこそ知らない/つかえないひととっては「はちぐわつ」はモンタラスで不気味な感じがします。
小池さんの歌に反復された「やう」は、ふだん使いはしないものの、非常に〈現代的ことばづかい〉の流れのなかで歴史的仮名遣いとして多用されています。
だから、わたしたちは、〈やう〉になじみきれないままに、そのなじみきれなさになじんでしまうのではないか。
それが、〈やう〉のプロになるということ。短歌というリニアなベクトルがもつ〈感情教育〉としての不思議な質感なのではないかと思うんです。
みづうみのみづをみにゆく空いろをそのままうつすみづをみにゆく 小池純代
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