【感想】さようなら さよなら さらば そうならば そうしなければならないならば 枡野浩一
- 2014/09/29
- 07:03
さようなら さよなら さらば そうならば そうしなければならないならば 枡野浩一
【短歌が短歌に告げたさようなら】
〈さようなら〉とは、その一語そのものがプロセスなのではないかと宮本佳世乃さんの句を読みながら感じたことだったんですが、この枡野さんの歌も〈さよならの冒険〉または〈さよならの発掘〉としてのプロセスとして読めるのではないかとおもうんです。
まず語り手は、「さようなら」と発話しています。
でも、「さようなら」だけでは、〈さよなら〉が足りなくて、「さよなら」とわずかにズレつつリフレインしました。
リフレインとは、強調の技法ですが、ここで大事なのは、「さようなら さようなら」と〈さようなら〉を二度リフレインしては「さようなら」が「さようなら」として機能しなくなってしまうということです。
「さようなら」を《ただ》反復するということは、その「さようなら」が三回も四回もn回も反復する可能性をつくりだしてしまうことであり、そういった構造をリフレインによってつくりだしてはならないからです(つまり、裏返せばリフレインとは、〈形式によって記憶させる技法〉です)。
だから、語り手は「さよなら」とズラしました。「さようなら」も「さよなら」も一回性としてあります。
でも、それでもまだ語り手はさよならしきれなかったので、「さらば」ともういちどズレながらリフレインしました。
そのとき、語り手は、おそらく〈さよなら〉のもうひとつの位相を発見しはじめています。
さよならできずに、語り=定型に執着しながら、さよならを繰り返していくうちに、語り手自身が〈さよなら〉のなかにおける〈論理〉にきづいていきます。おもいがけなくも、〈ば〉とふいに発声してしまったことによって。
〈さよなら〉は論理的ではありませんが、〈さらば〉は論理的です。
なぜなら、〈さらば〉とは、古語で接続詞だからです。
感動詞「さようなら」をズレをもって反復しているうちに、接続詞「さらば」に位相をズラしてしまう。〈感情〉のことばから、〈論理〉のことばへ。
そのとき、語り手は《必然的に》単独で発する品詞から接続する意志をもったセンテンスへの欲望を抱き始めます。
発話から物語へ〈語り〉が移行しはじめるのです。
「そうならば そうしなければならないならば」
語り手はだんだんと饒舌になっていきます。
さようならの論理をみつけてしまい、さよならの深層を発掘してしまったからです。
さようならには、まだ、奥がある、と。
だから、語り手にとっては、さようなら、は、さようなら、として機能しなかったことになります。
失調したさようならは、新たな物語をたちあげはじめました。
だからわたしは、このさようならの歌は、アンチさようならの歌ではないかと、おもいます。
これからなにかをはじめるための。
もうひとつまた物語を(ふいに)つむぎだすための。
しかし、語り手にさようならを告げたものは、ほかならぬ《定型》でした。
語り手がいくらなにかに気づき、饒舌になろうとしても、定型が語り手にさよならを告げます。
だからこの歌は、短歌にとって〈最大のさようなら〉を含んでいます。
定型としてのさようなら、です。
それがこの歌の最大のさようならのダイナミズムではないかと、わたしは、おもいます。
定型は、いつも、一回性の、反復される、〈さようなら〉だと、おもいます。
だからこそ、わたしたちは定型によって〈さよならの仕方〉を学ぶのではないかとも、おもうのです。
では、
何かが乱舞しているさようなら 定金冬二
さようなら、と日本の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。
「そうならねばならぬのなら」。
なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。
英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。
それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。
須賀敦子『遠い朝の本たち』
【短歌が短歌に告げたさようなら】
〈さようなら〉とは、その一語そのものがプロセスなのではないかと宮本佳世乃さんの句を読みながら感じたことだったんですが、この枡野さんの歌も〈さよならの冒険〉または〈さよならの発掘〉としてのプロセスとして読めるのではないかとおもうんです。
まず語り手は、「さようなら」と発話しています。
でも、「さようなら」だけでは、〈さよなら〉が足りなくて、「さよなら」とわずかにズレつつリフレインしました。
リフレインとは、強調の技法ですが、ここで大事なのは、「さようなら さようなら」と〈さようなら〉を二度リフレインしては「さようなら」が「さようなら」として機能しなくなってしまうということです。
「さようなら」を《ただ》反復するということは、その「さようなら」が三回も四回もn回も反復する可能性をつくりだしてしまうことであり、そういった構造をリフレインによってつくりだしてはならないからです(つまり、裏返せばリフレインとは、〈形式によって記憶させる技法〉です)。
だから、語り手は「さよなら」とズラしました。「さようなら」も「さよなら」も一回性としてあります。
でも、それでもまだ語り手はさよならしきれなかったので、「さらば」ともういちどズレながらリフレインしました。
そのとき、語り手は、おそらく〈さよなら〉のもうひとつの位相を発見しはじめています。
さよならできずに、語り=定型に執着しながら、さよならを繰り返していくうちに、語り手自身が〈さよなら〉のなかにおける〈論理〉にきづいていきます。おもいがけなくも、〈ば〉とふいに発声してしまったことによって。
〈さよなら〉は論理的ではありませんが、〈さらば〉は論理的です。
なぜなら、〈さらば〉とは、古語で接続詞だからです。
感動詞「さようなら」をズレをもって反復しているうちに、接続詞「さらば」に位相をズラしてしまう。〈感情〉のことばから、〈論理〉のことばへ。
そのとき、語り手は《必然的に》単独で発する品詞から接続する意志をもったセンテンスへの欲望を抱き始めます。
発話から物語へ〈語り〉が移行しはじめるのです。
「そうならば そうしなければならないならば」
語り手はだんだんと饒舌になっていきます。
さようならの論理をみつけてしまい、さよならの深層を発掘してしまったからです。
さようならには、まだ、奥がある、と。
だから、語り手にとっては、さようなら、は、さようなら、として機能しなかったことになります。
失調したさようならは、新たな物語をたちあげはじめました。
だからわたしは、このさようならの歌は、アンチさようならの歌ではないかと、おもいます。
これからなにかをはじめるための。
もうひとつまた物語を(ふいに)つむぎだすための。
しかし、語り手にさようならを告げたものは、ほかならぬ《定型》でした。
語り手がいくらなにかに気づき、饒舌になろうとしても、定型が語り手にさよならを告げます。
だからこの歌は、短歌にとって〈最大のさようなら〉を含んでいます。
定型としてのさようなら、です。
それがこの歌の最大のさようならのダイナミズムではないかと、わたしは、おもいます。
定型は、いつも、一回性の、反復される、〈さようなら〉だと、おもいます。
だからこそ、わたしたちは定型によって〈さよならの仕方〉を学ぶのではないかとも、おもうのです。
では、
何かが乱舞しているさようなら 定金冬二
さようなら、と日本の人々が別れにさいして口にのぼせる言葉は、もともと「そうならねばならぬのなら」という意味だとそのとき私は教えられた。
「そうならねばならぬのなら」。
なんという美しいあきらめの表現だろう。西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。
英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、だろうし、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期している。
それなのに、この国の人々は、別れにのぞんで、そうならねばならぬのなら、とあきらめの言葉を口にするのだ。
須賀敦子『遠い朝の本たち』
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