【感想】歌もまたテクストである? 昨日逝きにし歌主を措きて歌はある? ない? 佐佐木幸綱
- 2014/09/29
- 12:58
歌もまたテクストである? 昨日逝きにし歌主を措きて歌はある? ない? 佐佐木幸綱
【うふふふふ或いはパフェの行方】
佐佐木さんのこの歌をあえていいかえてみると、〈作者と歌の関係をどのように考えればいいのか〉、というふうにいえるようにおもう。
わたしがときどき気になるのは、〈作中主体〉をみている〈主体〉がいるような歌があることだ。
〈作中主体〉から距離を置き、〈作中主体〉をみつめ、〈作中主体〉から変化さえうける語る主体。
あえていうならば、作中主体をみている作中主体といったらいいか。
ときどきそんなような主体がねじれた歌があるようにおもう。
〈わたし=作中主体〉を語っていく過程において、作中の作中主体である〈わたし〉とは乖離してしまう変化する〈わたし〉がいるのではないかと(あえていえば、〈作外主体〉だろうか)。
だから、ことばを使い、語る過程において〈作中主体〉と乖離してしまった〈わたし〉を〈語り手〉と呼んでみたりしている。
〈語り手〉で歌をかんがえたときにいちばんテーマになるのは、たぶん、作中の〈わたし〉が何を考えているのか、ではなくて、作中の〈わたし〉を語っていた語り手が語っているうちにその言語作用のなかで《どう》変わってしまったのか、ということばの問題になるのではないかとおもう。
ことばが主体をどうたちあげていくかという問題。
そうした作中主体との相互干渉を起こす主体が〈語り手〉といえるように思う。
リアルを歌おうと、虚構を歌おうと、作中主体が事実だろうとフィクションだろうと、なんにせよ語り手はそこからなんらかの相互干渉を受け、変化する。
定型に沿って歌うということは、定型のもと歌い終わらせるということであり、その〈終わり〉を歌う主体は、プロセスとしてのことばの意味作用を〈こうむら〉ざるをえない。
定型としてのことばを発話することで〈歌う前〉から〈歌う後〉へと〈境界〉をふみこえる。そしてそのことによって語る主体は、変化する。
「歌もまたテクストである」か?
「歌もまたテクスト」である。
歌が事実だろうと、虚構だろうと、言語構築と言語実践によって、言語主体は変化をこうむるので。
だが、それと同時に「歌もまたテクスト」ではない。
なぜならそうした言語実践としての短歌テクストがある一方で、それを享受する受容の〈場〉がめいめいに分岐し、そのつど読み解かれていくから。
そのとき、それはただたんにテクストとしての意味作用ではなく、さまざまな変数が導入され、(場のイデオロギーを含みつつ)一義的に束ねられ受容されるそのつどの〈作品〉になる。
逆説的だが、多義的なテクストであるからこそ、それはその〈場〉の力学に応じた〈作品〉になる。
歌主から離れた短歌テクストは、受容の〈場〉においてふたたび歌主を召還する(場合がある)。
だからもし佐佐木さんの上の歌に答えるなら、こうではないだろうか。
「歌はある? ない?」の、そっくりそのままに、歌は「歌はある? ない?」として引き裂かれてある、と。
その引き裂かれたありようをみつめるには、みずからときに〈異端〉化する必要もあるのかもしれない。
公式をはみでると、公式が必然的/偶発的に、浮上してくる。
それをわたしは、ある佐佐木さんの歌にならって、うふふふふ主体と名付けてみようとおもう。
ちなみに、佐佐木さんは、「俺はパフェは食べない」主体だという。
わたしは、「パフェを食べる」主体である。パフェがだいすきなので。
でも、うふふふふ主体はそれら非パフェとパフェの間にある。たぶん。
一方と一方を成立させるためには、〈あいだ〉が構造化されてある必要がある。
その〈あいだ〉をいつもさがす異端な主体が、うふふふふ主体ではないかと、おもう。
新仮名の歌書く異端うふふふふ来寿の異端卒寿の異端 佐佐木幸綱
例えば、クリームパフェを食う男にはなりたくない、と俺は思っているわけだ。どんなに食いたくても俺はパフェは食わない。「朝日歌壇」の選歌のとき、永田和宏はクリームパフェを頼むんだな。高野公彦はその点僕と同じで絶対にパフェは食わない。「やだよねえ」と二人でうなずき合うんだけど、そういうことって、あるだろう(笑)。
佐佐木幸綱「インタビュー 伝統と異端」『角川短歌』2012/9
(佐佐木幸綱さん)
【うふふふふ或いはパフェの行方】
佐佐木さんのこの歌をあえていいかえてみると、〈作者と歌の関係をどのように考えればいいのか〉、というふうにいえるようにおもう。
わたしがときどき気になるのは、〈作中主体〉をみている〈主体〉がいるような歌があることだ。
〈作中主体〉から距離を置き、〈作中主体〉をみつめ、〈作中主体〉から変化さえうける語る主体。
あえていうならば、作中主体をみている作中主体といったらいいか。
ときどきそんなような主体がねじれた歌があるようにおもう。
〈わたし=作中主体〉を語っていく過程において、作中の作中主体である〈わたし〉とは乖離してしまう変化する〈わたし〉がいるのではないかと(あえていえば、〈作外主体〉だろうか)。
だから、ことばを使い、語る過程において〈作中主体〉と乖離してしまった〈わたし〉を〈語り手〉と呼んでみたりしている。
〈語り手〉で歌をかんがえたときにいちばんテーマになるのは、たぶん、作中の〈わたし〉が何を考えているのか、ではなくて、作中の〈わたし〉を語っていた語り手が語っているうちにその言語作用のなかで《どう》変わってしまったのか、ということばの問題になるのではないかとおもう。
ことばが主体をどうたちあげていくかという問題。
そうした作中主体との相互干渉を起こす主体が〈語り手〉といえるように思う。
リアルを歌おうと、虚構を歌おうと、作中主体が事実だろうとフィクションだろうと、なんにせよ語り手はそこからなんらかの相互干渉を受け、変化する。
定型に沿って歌うということは、定型のもと歌い終わらせるということであり、その〈終わり〉を歌う主体は、プロセスとしてのことばの意味作用を〈こうむら〉ざるをえない。
定型としてのことばを発話することで〈歌う前〉から〈歌う後〉へと〈境界〉をふみこえる。そしてそのことによって語る主体は、変化する。
「歌もまたテクストである」か?
「歌もまたテクスト」である。
歌が事実だろうと、虚構だろうと、言語構築と言語実践によって、言語主体は変化をこうむるので。
だが、それと同時に「歌もまたテクスト」ではない。
なぜならそうした言語実践としての短歌テクストがある一方で、それを享受する受容の〈場〉がめいめいに分岐し、そのつど読み解かれていくから。
そのとき、それはただたんにテクストとしての意味作用ではなく、さまざまな変数が導入され、(場のイデオロギーを含みつつ)一義的に束ねられ受容されるそのつどの〈作品〉になる。
逆説的だが、多義的なテクストであるからこそ、それはその〈場〉の力学に応じた〈作品〉になる。
歌主から離れた短歌テクストは、受容の〈場〉においてふたたび歌主を召還する(場合がある)。
だからもし佐佐木さんの上の歌に答えるなら、こうではないだろうか。
「歌はある? ない?」の、そっくりそのままに、歌は「歌はある? ない?」として引き裂かれてある、と。
その引き裂かれたありようをみつめるには、みずからときに〈異端〉化する必要もあるのかもしれない。
公式をはみでると、公式が必然的/偶発的に、浮上してくる。
それをわたしは、ある佐佐木さんの歌にならって、うふふふふ主体と名付けてみようとおもう。
ちなみに、佐佐木さんは、「俺はパフェは食べない」主体だという。
わたしは、「パフェを食べる」主体である。パフェがだいすきなので。
でも、うふふふふ主体はそれら非パフェとパフェの間にある。たぶん。
一方と一方を成立させるためには、〈あいだ〉が構造化されてある必要がある。
その〈あいだ〉をいつもさがす異端な主体が、うふふふふ主体ではないかと、おもう。
新仮名の歌書く異端うふふふふ来寿の異端卒寿の異端 佐佐木幸綱
例えば、クリームパフェを食う男にはなりたくない、と俺は思っているわけだ。どんなに食いたくても俺はパフェは食わない。「朝日歌壇」の選歌のとき、永田和宏はクリームパフェを頼むんだな。高野公彦はその点僕と同じで絶対にパフェは食わない。「やだよねえ」と二人でうなずき合うんだけど、そういうことって、あるだろう(笑)。
佐佐木幸綱「インタビュー 伝統と異端」『角川短歌』2012/9
(佐佐木幸綱さん)
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