【感想】たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子
- 2014/05/02
- 16:25
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子
飯田有子さんの有名な短歌です。
この短歌はすごい短歌だとおもうんですが、なぜこんなにも「たすけて」ほしい感じが発現しているのかが、わたしはこの短歌のおもしろさなんではないかとおもうんです。
この短歌の構造はいっけんきわめて明確です。
たすけてA、たすけてB、たすけてC
というセンテンスとしては明快な構造になっています。
しかし、問題はこれが短歌であるという点です。短歌というのは定型なので、たとえばこれをなんとか試行錯誤して定型にはめてみようとするとします。
たすけてえだげ/ねえさんたすけて/にしかわもうふの/たぐたすけてよなか/になでまわすかお
こんなかんじでとりあえずわけてみました。意味論上とブレスのリズムを考えながら定型にとりあえずあてはめてみたんですが、とてもうまくいきません。
どうもこのうたは、意味論で向かい合おうとすると、読み手が挫折するように仕掛けられているようなのです。
ここでもういちど、定型の基本をかんがえてみたいとおもいます。定型とは、57577なんですが、それはあくまで休符をぬいた音律であり、休符も含めると88888になります。たとえば、5の初句なんかでも3音の間をとっているのです。
この88888に飯田さんのこの短歌をあてはめてみるとおどろくべきことがわかります。
たすけてえだげね/えさんたすけてに/しかわもうふのた/ぐたすけてよなか/になでまわすかお
88888ですべてきれいにととのっています。
つまり、こんなふうにわたしはかんがえます。
57577の定型ではかんたんにあてはまらないほどにこの短歌の語り手の思考は乱れ、「たすけ」を求めるような状況下で発話しています。しかしその一方で、88888という気息やブレスなしで定型をきつきつにめいっぱい活用し、一気呵成に発話する状況では整然と定型を守っているのです。
つまり、そうかんたんにはだれにもこの語り手を救えない状況をこの短歌自身がつくりあげてしまうのですが、ところが最後の最後にこの語り手は短歌の定型によって救われている、たすけられているということになるのではないかとおもうのです。
もうひとつ大事な点があるように思います。それはこの88888でわけたときに、「たすけて」と呼びかけている、もしくはその状況に巻き込まれている「枝毛姉さん」「西川毛布のタグ」「夜中になでまわす顔」がどれも定型上ずたずたに引き裂かれてしまっている点です。
つまり、語り手はさいごのさいごに短歌によって救われますが、これらの「姉さん」「タグ」「顔」は語り手が救われたその定型によって誰にもたすけることのできない状況に追い込まれてしまっていることになります。
飯田さんの短歌は、こんなふうに「たすけて」がさまざまなプリズムをまきちらしながら、たすける/たすけられない/たすからないなど次々と錯綜し、変転していく様態そのものを短歌というモードをフルに活用してうたったところにひとつのおもしろさがあるようにおもうのです。
人間の言語活動の使用が、情報をあたえようとする意志ないしはその事実によって特徴づけられるとする考えは誤りである。
ノーム・チョムスキー
飯田有子さんの有名な短歌です。
この短歌はすごい短歌だとおもうんですが、なぜこんなにも「たすけて」ほしい感じが発現しているのかが、わたしはこの短歌のおもしろさなんではないかとおもうんです。
この短歌の構造はいっけんきわめて明確です。
たすけてA、たすけてB、たすけてC
というセンテンスとしては明快な構造になっています。
しかし、問題はこれが短歌であるという点です。短歌というのは定型なので、たとえばこれをなんとか試行錯誤して定型にはめてみようとするとします。
たすけてえだげ/ねえさんたすけて/にしかわもうふの/たぐたすけてよなか/になでまわすかお
こんなかんじでとりあえずわけてみました。意味論上とブレスのリズムを考えながら定型にとりあえずあてはめてみたんですが、とてもうまくいきません。
どうもこのうたは、意味論で向かい合おうとすると、読み手が挫折するように仕掛けられているようなのです。
ここでもういちど、定型の基本をかんがえてみたいとおもいます。定型とは、57577なんですが、それはあくまで休符をぬいた音律であり、休符も含めると88888になります。たとえば、5の初句なんかでも3音の間をとっているのです。
この88888に飯田さんのこの短歌をあてはめてみるとおどろくべきことがわかります。
たすけてえだげね/えさんたすけてに/しかわもうふのた/ぐたすけてよなか/になでまわすかお
88888ですべてきれいにととのっています。
つまり、こんなふうにわたしはかんがえます。
57577の定型ではかんたんにあてはまらないほどにこの短歌の語り手の思考は乱れ、「たすけ」を求めるような状況下で発話しています。しかしその一方で、88888という気息やブレスなしで定型をきつきつにめいっぱい活用し、一気呵成に発話する状況では整然と定型を守っているのです。
つまり、そうかんたんにはだれにもこの語り手を救えない状況をこの短歌自身がつくりあげてしまうのですが、ところが最後の最後にこの語り手は短歌の定型によって救われている、たすけられているということになるのではないかとおもうのです。
もうひとつ大事な点があるように思います。それはこの88888でわけたときに、「たすけて」と呼びかけている、もしくはその状況に巻き込まれている「枝毛姉さん」「西川毛布のタグ」「夜中になでまわす顔」がどれも定型上ずたずたに引き裂かれてしまっている点です。
つまり、語り手はさいごのさいごに短歌によって救われますが、これらの「姉さん」「タグ」「顔」は語り手が救われたその定型によって誰にもたすけることのできない状況に追い込まれてしまっていることになります。
飯田さんの短歌は、こんなふうに「たすけて」がさまざまなプリズムをまきちらしながら、たすける/たすけられない/たすからないなど次々と錯綜し、変転していく様態そのものを短歌というモードをフルに活用してうたったところにひとつのおもしろさがあるようにおもうのです。
人間の言語活動の使用が、情報をあたえようとする意志ないしはその事実によって特徴づけられるとする考えは誤りである。
ノーム・チョムスキー
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