【感想】土器の出る小学校を卒業す 喪字男
- 2014/10/03
- 01:22
土器の出る小学校を卒業す 喪字男
【土器と卒業】
この句は、現在でも脈々と構築されている壮大な学校文化を反転させ相対化する句として対置したときに面白さがいっそう際だってくるのではないかとおもうんです。
小学校っていう場所はさまざまな物語をつむぐ場所(作文教育、エクリチュールの鍛錬)、もしくは自らの身体構築(整列、行進、前ならえ、体育座りといった規律訓練)、あるいは他者との関係性の習熟(「いちねんせいになったらともだちひゃくにんできるかな」、席替え、クラス行事)などさまざまなプレ社会訓練の要素が主体構築の一環として〈自主的〉に行えるよう主体をねりあげる場所だと思うんですが、ところが語り手にとって卒業時に小学校に関していちばん語るべきことは、「土器の出る小学校」だった。
そこがポイントになるんじゃないかなとおもいます。
小学校のことを語りながら、非小学校のことしか語らないでいること。
語り手にとっての小学校という場所は、制度のもとに受け継がれてきた主体訓練の場としてあるのではなく、小学校そのものを支えている〈地層〉にある。
ここには、主体も、関係性も、言語も、競争関係もなく、ただ、「土器」への、その「土器」がでている〈場所〉への関心があるだけです。
もっといえばここには〈わたし〉さえも没しているとおもいます。
この小学校は〈わたし〉が入学しようとも卒業しようともなんら変わりがない。
なぜなら、〈わたし〉がいても・いなくてもそこからは、〈土器〉がでるであろうからです。
土器、ということばにはこんなふうに〈わたし〉を超越する、いや近代的な装置としての〈小学校〉さえも超える、歴史的超越性があるとおもいます。
そうした小学校という制度そのものの以前にまでさかのぼる時間の流れ(土器)と、じぶんが実際に通った現在の時間の流れ(卒業)が、交錯する。
そういった、世間の学校文化スルーの、しかしだからこそもっとおおきな時間の流れのなかから〈わたし〉が卒業しようとしている、そんなおもしろさがある句なのではないかとおもいます。
コピー機にひかり溢るる雨月かな 喪字男
【土器と卒業】
この句は、現在でも脈々と構築されている壮大な学校文化を反転させ相対化する句として対置したときに面白さがいっそう際だってくるのではないかとおもうんです。
小学校っていう場所はさまざまな物語をつむぐ場所(作文教育、エクリチュールの鍛錬)、もしくは自らの身体構築(整列、行進、前ならえ、体育座りといった規律訓練)、あるいは他者との関係性の習熟(「いちねんせいになったらともだちひゃくにんできるかな」、席替え、クラス行事)などさまざまなプレ社会訓練の要素が主体構築の一環として〈自主的〉に行えるよう主体をねりあげる場所だと思うんですが、ところが語り手にとって卒業時に小学校に関していちばん語るべきことは、「土器の出る小学校」だった。
そこがポイントになるんじゃないかなとおもいます。
小学校のことを語りながら、非小学校のことしか語らないでいること。
語り手にとっての小学校という場所は、制度のもとに受け継がれてきた主体訓練の場としてあるのではなく、小学校そのものを支えている〈地層〉にある。
ここには、主体も、関係性も、言語も、競争関係もなく、ただ、「土器」への、その「土器」がでている〈場所〉への関心があるだけです。
もっといえばここには〈わたし〉さえも没しているとおもいます。
この小学校は〈わたし〉が入学しようとも卒業しようともなんら変わりがない。
なぜなら、〈わたし〉がいても・いなくてもそこからは、〈土器〉がでるであろうからです。
土器、ということばにはこんなふうに〈わたし〉を超越する、いや近代的な装置としての〈小学校〉さえも超える、歴史的超越性があるとおもいます。
そうした小学校という制度そのものの以前にまでさかのぼる時間の流れ(土器)と、じぶんが実際に通った現在の時間の流れ(卒業)が、交錯する。
そういった、世間の学校文化スルーの、しかしだからこそもっとおおきな時間の流れのなかから〈わたし〉が卒業しようとしている、そんなおもしろさがある句なのではないかとおもいます。
コピー機にひかり溢るる雨月かな 喪字男
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