【感想】立ち上がる熊にんげんの背中して 八上桐子
- 2014/10/03
- 12:38
立ち上がる熊にんげんの背中して 八上桐子
【マイクロシーベルトとクマのプーさん】
木村朗子さんの『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』で指摘されていることなんですが、震災後になぜか〈クマ〉の表象が増えているんです。
川上弘美さんの『神様2011』が有名ですが、どういうわけか、文学において熊が駆り出されてくる。
で、ひとつ思うのは、熊どくとくの表象のありようが、そうした事態につながっていったのかなとおもうんです。
八上さんの句に端的にあらわれていますが、熊というのは、〈にんげん〉以上に〈にんげん〉の姿をみせてくるわけです。
立ち上がるし、立ち上がったままパンチしてくるし、すっくと立ったその背中なんかも人間よりもにんげんらしい。
ただその〈にんげん〉らしさの表象のなかで〈にんげん〉とひらがな表記されたように、〈人間〉でないのが熊のありかたです。
こちらを躊躇なしで殺してくるわけです。そこには、計略や意志や感情といったものはなく、あくまで生態のシステムの問題として、にんげんをにんげんとして視ることなく殺してきます。
で、その一方で、熊は非常に〈にんげん〉的です。
たとえば、クマのプーさんがその典型ですが、こちらを殺すというよりは、生かす存在として、またわたしたちが言語の網の目で主体をつちかっているためにみえなくなっている間隙を教えてくれる〈癒し〉の主体としてもクマはいるわけです(プーは〈おばかさん〉なのでことばがうまく使えないが、だからこそ言語主体にはみえない風景がみえる)。
残酷な熊も、癒しのクマも、どちらも〈にんげん〉っぽいですが、〈人間〉ではない。
そうした〈にんげん〉と〈人間〉のはざかいで表象されてきたのがクマなのではないかとおもうのです(そのはざかいをはざかいのままに小説化したものに宮沢賢治の『なめとこ山の熊』があると思います。残酷/癒しのそのどちらをも持つ熊です)。
震災後に表現の課題としてあがったのは、言葉を発話したその瞬間、ただちにその発話が〈人間〉的であったかそれとも非〈人間〉的=〈にんげん〉的であったかが問われてしまうような、〈人間〉と〈にんげん〉のあいだを揺らぐようになってしまう位置性の問われ方にあったようにおもいます。
なにかを発話したそのせつなに、言説の内実よりはその言説が〈人間〉的であったかどうかがすぐに突き詰められてしまう、分別されてしまう事態が。
そのとき、その〈人間〉と〈にんげん〉のはざかいに揺らぐ表象として〈クマ〉が持ち出されてきたのではないだろうか、とおもうんです。
どこにも位置をとることのできない位置性として。
そのどこにもない、しかしどこにもないことによって〈人間〉とかかわらざるをえない表象としての位置性が〈クマ〉に担保されていたのではないかとおもうのです。
きっと子熊とは飲まないスープ飲む ながたまみ
ぴしゃといふやうに鉄砲の音が小十郎に聞えた。
ところが熊は少しも倒れないで嵐のやうに黒くゆらいでやって来たやうだった。
犬がその足もとに噛み付いた。
と思ふと小十郎はがあんと頭が鳴ってまはりがいちめんまっ青になった。
それから遠くでかう云ふことばを聞いた。
「おゝ小十郎おまへを殺すつもりはなかった。」
宮沢賢治「なめとこ山の熊」
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。
くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。
川上弘美『神様2011』
【マイクロシーベルトとクマのプーさん】
木村朗子さんの『震災後文学論 あたらしい日本文学のために』で指摘されていることなんですが、震災後になぜか〈クマ〉の表象が増えているんです。
川上弘美さんの『神様2011』が有名ですが、どういうわけか、文学において熊が駆り出されてくる。
で、ひとつ思うのは、熊どくとくの表象のありようが、そうした事態につながっていったのかなとおもうんです。
八上さんの句に端的にあらわれていますが、熊というのは、〈にんげん〉以上に〈にんげん〉の姿をみせてくるわけです。
立ち上がるし、立ち上がったままパンチしてくるし、すっくと立ったその背中なんかも人間よりもにんげんらしい。
ただその〈にんげん〉らしさの表象のなかで〈にんげん〉とひらがな表記されたように、〈人間〉でないのが熊のありかたです。
こちらを躊躇なしで殺してくるわけです。そこには、計略や意志や感情といったものはなく、あくまで生態のシステムの問題として、にんげんをにんげんとして視ることなく殺してきます。
で、その一方で、熊は非常に〈にんげん〉的です。
たとえば、クマのプーさんがその典型ですが、こちらを殺すというよりは、生かす存在として、またわたしたちが言語の網の目で主体をつちかっているためにみえなくなっている間隙を教えてくれる〈癒し〉の主体としてもクマはいるわけです(プーは〈おばかさん〉なのでことばがうまく使えないが、だからこそ言語主体にはみえない風景がみえる)。
残酷な熊も、癒しのクマも、どちらも〈にんげん〉っぽいですが、〈人間〉ではない。
そうした〈にんげん〉と〈人間〉のはざかいで表象されてきたのがクマなのではないかとおもうのです(そのはざかいをはざかいのままに小説化したものに宮沢賢治の『なめとこ山の熊』があると思います。残酷/癒しのそのどちらをも持つ熊です)。
震災後に表現の課題としてあがったのは、言葉を発話したその瞬間、ただちにその発話が〈人間〉的であったかそれとも非〈人間〉的=〈にんげん〉的であったかが問われてしまうような、〈人間〉と〈にんげん〉のあいだを揺らぐようになってしまう位置性の問われ方にあったようにおもいます。
なにかを発話したそのせつなに、言説の内実よりはその言説が〈人間〉的であったかどうかがすぐに突き詰められてしまう、分別されてしまう事態が。
そのとき、その〈人間〉と〈にんげん〉のはざかいに揺らぐ表象として〈クマ〉が持ち出されてきたのではないだろうか、とおもうんです。
どこにも位置をとることのできない位置性として。
そのどこにもない、しかしどこにもないことによって〈人間〉とかかわらざるをえない表象としての位置性が〈クマ〉に担保されていたのではないかとおもうのです。
きっと子熊とは飲まないスープ飲む ながたまみ
ぴしゃといふやうに鉄砲の音が小十郎に聞えた。
ところが熊は少しも倒れないで嵐のやうに黒くゆらいでやって来たやうだった。
犬がその足もとに噛み付いた。
と思ふと小十郎はがあんと頭が鳴ってまはりがいちめんまっ青になった。
それから遠くでかう云ふことばを聞いた。
「おゝ小十郎おまへを殺すつもりはなかった。」
宮沢賢治「なめとこ山の熊」
「抱擁を交わしていただけますか」
くまは言った。
「親しい人と別れるときの故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」
わたしは承知した。
くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない。
川上弘美『神様2011』
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