【感想】This video has been deleted. そのようにメダカの絶えた水槽を見る 岡野大嗣
- 2014/10/03
- 20:10
This video has been deleted. そのようにメダカの絶えた水槽を見る 岡野大嗣
【蜘蛛巣城でクッションの縫い目をさがす】
岡野さんの短歌でおもしろいなって思うのは、デジタル領域で使われる言い回しが使われているんですが、それがデジタル領域にとどまらずにアナログな領域と接合されてくるところです。
たとえばこの短歌では、「This video has been deleted.」という、リンクをとんで動画をみようとしたときに、すでに動画が削除されているという、そういうネットを使用しているとであうデジタルな言い回しが〈引用〉されているのがポイントになるとおもうんですが、大事なことは、このセンテンスが、ただの「動画は削除されました」という純粋な指示標識から、その文を受け取る読み手の文脈によって意味が変化する読み取られる〈テクスト〉となっていることです。
ただこの“This video has been deleted.”は、〈エロ動画〉が削除された場合が多いので、そうした傾けられた欲望と、それを唐突に遮断する欲望の挫折というネット上に特有の欲望の形態から考察してみる必要があるかもしれません。
つまり、センテンス自体は純粋な指示表出なんですが、性的欲望が傾斜させられ挫折させられるという二重の両極を経験することによって物語化されたセンテンスになっているのです。このセンテンス自体が、非在の在という〈空(くう)〉のような矛盾した存在様式であるところも興味深いところです。
ここで構文にたちかえって、この短歌の「そのように」に注目してみたいとおもいます。
「そのように」と語り手がデジタルなセンテンスをみずからの「メダカの絶えた水槽」という生活の文脈に節合させていくように、「This video has been deleted.」は、示される文から生きられる文へとその文の形態をチェンジしています。
ここで思うのは、デジタルの世界の指示標識というのはあくまで意味がズレることのないただの指示伝達にしか過ぎないのだけれども、しかし、それはどれだけデジタルでも〈ことば〉によってあらわされているわけです。
つまり、どのようなデジタルのトラブルも、それをトラブルなんですと指示伝達するのはことばであり、その限りにおいてどこまでもアナログだとおもうんですね。
メディアがデジタル=ゼロワンになりえないアナログな指示伝達になるということは、そこに意味のズレが必ず生まれてくるということです。ズレが生じるということは、そこには節合可能なズレた意味としてのほころびとしての節目が出てくるということでもある(ちょっとここで、実は押井守の『攻殻機動隊』も『イノセンス』もそういったデジタル領域のなかのアナログ的ズレを描いていたのではないかとおもいました。岡野さんの短歌と押井アニメーションはどこかで響きあっているかもしれません)。
どれだけ回りがデジタル化されても、生きる感性=慣性は、そのデジタル化しえないズレのなかでアナログ的に意味の節合を繰り返し、たえず文脈を転用し、あらたな意味生成(テクスチャー)をつくっていく。
実はそうしたデジタルとアナログの節目をみすえるちからが、デジタルにもアナログにもひきずられない〈感性〉なのではないかともおもうのです。
もっといえば、そうしたみずから接合の節目をみいだすことが、メディア・リテラシーのひとつとしてあるのではないかと。
メディアを使いこなす主体を流麗に披露するのでも、メディアを使いこなせない主体を卑下するのでもなく、その節目のなかで無限と有限の言語主体として意味を転用し、実践していくこと。つまり、この岡野さんの短歌の結語に象徴的におかれている「見る」主体を《どう》実践していくかという、鬱蒼としたジャングルのようでありながらも実は貧困かもしれないという広大なメディア環境の課題(ネット上にほとんどのデータをあずけ構築しながらも、twitpic問題のようにそれが一晩で消えることになるかもしれないという顕在的豊穣と潜在的貧困の問題)。
それがこの短歌ではひとつの〈見る〉実践として現れているのではないかとおもいました。
「そのように」としての、どの〈縫い目〉に立つべきなのか。
ここでやはり最初に補足したエロ動画の削除の挫折としてこの短歌を補足しておきたいとおもいます。
語り手は、飼育していたメダカの全滅にあっているんですが、ここにも語り手が経験した欲望の傾斜と、しかしそれをふいに中断するような欲望の遮断が関わっているかもしれません。〈メダカの死〉に象徴されているものの、喪失とは、〈ゆきすぎた欲望〉と〈手遅れの理解〉から成立することが多いからです(そしてこの〈喪失〉にはジェンダー・バイアスがかかっている場合があるかもしれません)。
こんなふうに、「そのように」と語った語り手の〈連絡〉をいろんな回路から読み解くことのできる短歌になっているとおもいます。
〈わたし〉にとってこの語り手はどこにいるのか?
それがこの短歌のおもしろさになっているとおもいます。
どう〈わたし〉が「そのように」をつなぐのか。
この世界では、救い/非救いの手は、やがて、頭上からあらわれるかもしれません。
救いの手めいたUFOキャッチャーのアームに首をただ撫でられる 岡野大嗣
【蜘蛛巣城でクッションの縫い目をさがす】
岡野さんの短歌でおもしろいなって思うのは、デジタル領域で使われる言い回しが使われているんですが、それがデジタル領域にとどまらずにアナログな領域と接合されてくるところです。
たとえばこの短歌では、「This video has been deleted.」という、リンクをとんで動画をみようとしたときに、すでに動画が削除されているという、そういうネットを使用しているとであうデジタルな言い回しが〈引用〉されているのがポイントになるとおもうんですが、大事なことは、このセンテンスが、ただの「動画は削除されました」という純粋な指示標識から、その文を受け取る読み手の文脈によって意味が変化する読み取られる〈テクスト〉となっていることです。
ただこの“This video has been deleted.”は、〈エロ動画〉が削除された場合が多いので、そうした傾けられた欲望と、それを唐突に遮断する欲望の挫折というネット上に特有の欲望の形態から考察してみる必要があるかもしれません。
つまり、センテンス自体は純粋な指示表出なんですが、性的欲望が傾斜させられ挫折させられるという二重の両極を経験することによって物語化されたセンテンスになっているのです。このセンテンス自体が、非在の在という〈空(くう)〉のような矛盾した存在様式であるところも興味深いところです。
ここで構文にたちかえって、この短歌の「そのように」に注目してみたいとおもいます。
「そのように」と語り手がデジタルなセンテンスをみずからの「メダカの絶えた水槽」という生活の文脈に節合させていくように、「This video has been deleted.」は、示される文から生きられる文へとその文の形態をチェンジしています。
ここで思うのは、デジタルの世界の指示標識というのはあくまで意味がズレることのないただの指示伝達にしか過ぎないのだけれども、しかし、それはどれだけデジタルでも〈ことば〉によってあらわされているわけです。
つまり、どのようなデジタルのトラブルも、それをトラブルなんですと指示伝達するのはことばであり、その限りにおいてどこまでもアナログだとおもうんですね。
メディアがデジタル=ゼロワンになりえないアナログな指示伝達になるということは、そこに意味のズレが必ず生まれてくるということです。ズレが生じるということは、そこには節合可能なズレた意味としてのほころびとしての節目が出てくるということでもある(ちょっとここで、実は押井守の『攻殻機動隊』も『イノセンス』もそういったデジタル領域のなかのアナログ的ズレを描いていたのではないかとおもいました。岡野さんの短歌と押井アニメーションはどこかで響きあっているかもしれません)。
どれだけ回りがデジタル化されても、生きる感性=慣性は、そのデジタル化しえないズレのなかでアナログ的に意味の節合を繰り返し、たえず文脈を転用し、あらたな意味生成(テクスチャー)をつくっていく。
実はそうしたデジタルとアナログの節目をみすえるちからが、デジタルにもアナログにもひきずられない〈感性〉なのではないかともおもうのです。
もっといえば、そうしたみずから接合の節目をみいだすことが、メディア・リテラシーのひとつとしてあるのではないかと。
メディアを使いこなす主体を流麗に披露するのでも、メディアを使いこなせない主体を卑下するのでもなく、その節目のなかで無限と有限の言語主体として意味を転用し、実践していくこと。つまり、この岡野さんの短歌の結語に象徴的におかれている「見る」主体を《どう》実践していくかという、鬱蒼としたジャングルのようでありながらも実は貧困かもしれないという広大なメディア環境の課題(ネット上にほとんどのデータをあずけ構築しながらも、twitpic問題のようにそれが一晩で消えることになるかもしれないという顕在的豊穣と潜在的貧困の問題)。
それがこの短歌ではひとつの〈見る〉実践として現れているのではないかとおもいました。
「そのように」としての、どの〈縫い目〉に立つべきなのか。
ここでやはり最初に補足したエロ動画の削除の挫折としてこの短歌を補足しておきたいとおもいます。
語り手は、飼育していたメダカの全滅にあっているんですが、ここにも語り手が経験した欲望の傾斜と、しかしそれをふいに中断するような欲望の遮断が関わっているかもしれません。〈メダカの死〉に象徴されているものの、喪失とは、〈ゆきすぎた欲望〉と〈手遅れの理解〉から成立することが多いからです(そしてこの〈喪失〉にはジェンダー・バイアスがかかっている場合があるかもしれません)。
こんなふうに、「そのように」と語った語り手の〈連絡〉をいろんな回路から読み解くことのできる短歌になっているとおもいます。
〈わたし〉にとってこの語り手はどこにいるのか?
それがこの短歌のおもしろさになっているとおもいます。
どう〈わたし〉が「そのように」をつなぐのか。
この世界では、救い/非救いの手は、やがて、頭上からあらわれるかもしれません。
救いの手めいたUFOキャッチャーのアームに首をただ撫でられる 岡野大嗣
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