【感想】鴇田智哉『句集 凧と円柱』ー突端への気遣い-
- 2014/10/03
- 21:16
春めくと枝にあたつてから気づく 鴇田智哉
【円柱を、さがす】
鴇田さんの句で前から気になってた句です。
今回、鴇田さんの句集を読んでみて、この句からひろがっていくかたちであるシーンが自分のなかに浮かんできたのでそれを描いてみたいとおもいます。
だいたんにいえば、鴇田さんの句には、〈突端への気遣い〉があるのではないか。
たとえば上の句では、枝を「み」て、ではなく、「あたつてから気づ」いていることが肝要です。
「あたつ」たということは、語り手の身体に多少なりとも枝がつきあたった/ささったということであり、その〈突端〉によって語り手は「気づく」という知覚を経ています。
ここで、鴇田さんの句集から、〈突端への気遣い〉を語り手がみせている句を拾い上げてみます。
ひなたなら鹿の形があてはまる 鴇田智哉
いきものは凧からのびてくる糸か 〃
さざめきのさなかに針を仕舞ふ春 〃
いちめんの桜のなかを杖が来る 〃
「鹿」のつの、「凧からのびてくる糸」、ざわめきのなかでの「針」、いちめんの桜のなかの「杖」。
ここでは〈突端〉を語り手がシーンのなかに見出し、そこから場面を立ち上げることによって、シーンの点(ドット)を生成すると同時に、それを円心にしてくりひろげられる世界が構築されています。
ここでは語り手の視覚は補助的なものであり、あくまで中心は、世界にいかに〈突端〉を見いだせるか/が見いだせたかにあります。
そのことによって俳句世界における、視覚/聴覚/触覚さえも抑圧し(ドットは一瞬的な知覚です)、〈知覚〉だけの言語世界を構築しているといえるのではないでしょうか。
句集のタイトルにもすでにあらわれています。
〈円柱〉と。
世界の中心には、声でも、視線でも、ふれあいでも、関係でも、愛でもなく、〈円柱〉があります。
円柱の蝉のきこえる側にゐる 鴇田智哉
【円柱を、さがす】
鴇田さんの句で前から気になってた句です。
今回、鴇田さんの句集を読んでみて、この句からひろがっていくかたちであるシーンが自分のなかに浮かんできたのでそれを描いてみたいとおもいます。
だいたんにいえば、鴇田さんの句には、〈突端への気遣い〉があるのではないか。
たとえば上の句では、枝を「み」て、ではなく、「あたつてから気づ」いていることが肝要です。
「あたつ」たということは、語り手の身体に多少なりとも枝がつきあたった/ささったということであり、その〈突端〉によって語り手は「気づく」という知覚を経ています。
ここで、鴇田さんの句集から、〈突端への気遣い〉を語り手がみせている句を拾い上げてみます。
ひなたなら鹿の形があてはまる 鴇田智哉
いきものは凧からのびてくる糸か 〃
さざめきのさなかに針を仕舞ふ春 〃
いちめんの桜のなかを杖が来る 〃
「鹿」のつの、「凧からのびてくる糸」、ざわめきのなかでの「針」、いちめんの桜のなかの「杖」。
ここでは〈突端〉を語り手がシーンのなかに見出し、そこから場面を立ち上げることによって、シーンの点(ドット)を生成すると同時に、それを円心にしてくりひろげられる世界が構築されています。
ここでは語り手の視覚は補助的なものであり、あくまで中心は、世界にいかに〈突端〉を見いだせるか/が見いだせたかにあります。
そのことによって俳句世界における、視覚/聴覚/触覚さえも抑圧し(ドットは一瞬的な知覚です)、〈知覚〉だけの言語世界を構築しているといえるのではないでしょうか。
句集のタイトルにもすでにあらわれています。
〈円柱〉と。
世界の中心には、声でも、視線でも、ふれあいでも、関係でも、愛でもなく、〈円柱〉があります。
円柱の蝉のきこえる側にゐる 鴇田智哉
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