【感想】一方でジャイ子はのび太をあきらめて漫画を描いたずっと一人で 工藤吉生
- 2014/10/04
- 11:44
一方で
ジャイ子はのび太を
あきらめて
漫画を描いた
ずっと一人で 工藤吉生
【ドラえもんサーガからの離脱】
とても好きな歌なんですが、この歌のおもしろいところは、この単価の初句の「一方で」が象徴的なように、ドラえもんサーガという巨大なドラえもん体系を相対化しているところにあるとおもうんです。
ドラえもんはタイトルが『ドラえもん』であるように、ドラえもん〈との〉物語であるわけです。
あくまで主人公はのび太なんだけれども、その主人公を補助する役割としてドラえもんがいる。
だから、ドラえもんがいなくなっても、いなくなったドラえもんの物語(ドラえもんが不在のドラマ)として『ドラえもん』は続いていくんだけれども、キャラクターとしてののび太はそこで〈死ぬ〉んだとおもうんですね。
なぜなら、ドラえもんによって補助されつづけているという非成熟こそがのび太の最大のキャラクター性であり、ドラえもんが不在でも生きられる〈成熟〉を示したときに、のび太はキャラクターを脱けて〈ふつうの大人〉になるからです。
暴力性を他者に示すことによってキャラクターを立てるジャイアンも、階層性を示唆することによってキャラクターを立てるスネ夫も、美学美術と同じように鑑賞される裸体を無根拠に提示しつづけるジェンダーバイアスがかかっているしずかちゃんも、みな、他とのキャラクターとの兼ね合いでキャラクターを形成しています。
だからこそ、工藤さんのこの歌における「あきらめて」と「ずっと一人で」が大事になってくるのではないかとおもうんです。
まず、「あきらめて」は、関係性の途絶です。そこでジャイ子はジャイ子としてのキャラクターをあきらめている。
そして、「ずっと一人で」というのは、その諦念を時間軸でとらえようとする語り手の示唆です。
〈ただ〉あきらめたわけでなく、〈ずっと〉あきらめつつも一人でみずからの根拠を実践しつづけたこと。
それがドラえもんサーガという壮大な他者依存の体系を相対化しているのでないかとおもうんです。
体系に対して「一方で」の生のありかたをさししめすということ。
そこに「ずっと」という時間枠を導入してみること。
「こんにちは」「さようなら」という10文字の中から愛を探すしかない 工藤吉生
ジャイ子はのび太を
あきらめて
漫画を描いた
ずっと一人で 工藤吉生
【ドラえもんサーガからの離脱】
とても好きな歌なんですが、この歌のおもしろいところは、この単価の初句の「一方で」が象徴的なように、ドラえもんサーガという巨大なドラえもん体系を相対化しているところにあるとおもうんです。
ドラえもんはタイトルが『ドラえもん』であるように、ドラえもん〈との〉物語であるわけです。
あくまで主人公はのび太なんだけれども、その主人公を補助する役割としてドラえもんがいる。
だから、ドラえもんがいなくなっても、いなくなったドラえもんの物語(ドラえもんが不在のドラマ)として『ドラえもん』は続いていくんだけれども、キャラクターとしてののび太はそこで〈死ぬ〉んだとおもうんですね。
なぜなら、ドラえもんによって補助されつづけているという非成熟こそがのび太の最大のキャラクター性であり、ドラえもんが不在でも生きられる〈成熟〉を示したときに、のび太はキャラクターを脱けて〈ふつうの大人〉になるからです。
暴力性を他者に示すことによってキャラクターを立てるジャイアンも、階層性を示唆することによってキャラクターを立てるスネ夫も、美学美術と同じように鑑賞される裸体を無根拠に提示しつづけるジェンダーバイアスがかかっているしずかちゃんも、みな、他とのキャラクターとの兼ね合いでキャラクターを形成しています。
だからこそ、工藤さんのこの歌における「あきらめて」と「ずっと一人で」が大事になってくるのではないかとおもうんです。
まず、「あきらめて」は、関係性の途絶です。そこでジャイ子はジャイ子としてのキャラクターをあきらめている。
そして、「ずっと一人で」というのは、その諦念を時間軸でとらえようとする語り手の示唆です。
〈ただ〉あきらめたわけでなく、〈ずっと〉あきらめつつも一人でみずからの根拠を実践しつづけたこと。
それがドラえもんサーガという壮大な他者依存の体系を相対化しているのでないかとおもうんです。
体系に対して「一方で」の生のありかたをさししめすということ。
そこに「ずっと」という時間枠を導入してみること。
「こんにちは」「さようなら」という10文字の中から愛を探すしかない 工藤吉生
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