【感想】だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし 宇都宮敦
- 2014/10/04
- 21:45
だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし 急いでないし 旅でもないし 宇都宮敦
【短歌を旅する-ショートソング・ロングジャーニー-】
枡野浩一さんにも〈さようなら〉を微分していくことで〈さようなら〉の意味が変わっていってしまう短歌がありましたが、宇都宮さんのこの短歌も「急ぐ旅」を語り手が微分していることに注目してみたいとおもいます。
大事なのは、「急ぐ旅ではない」と否定することと、「旅でもない」と否定することには、微妙だけれど決定的な違いが存在するということではないかとおもいます。
「急ぐ旅ではない」というのは、「急がない旅」=ゆっくりできる旅でもあるということで、とりあえず旅であるということは担保できます。「急ぐ旅ではない」というときに、回答として機能しているのは、急ぐか・どうかであった、旅かどうかではありません。
ところが語り手は結句でつけくわえて「旅でもないし」といっています。
これは質問者にとっては、予想外の〈回答〉だったとおもいます。もし予想内ならわざわざここで付加して答える必要はないからです。わざわざ付加したのは「旅でもない」んだよ、ということを伝えるためです。
ここまできておもうことは、次のことです。
ほんとうに、「だいじょうぶ」なのか、と。
語り手は、おそらく、「この旅は急ぐ旅なのかどうか」という質問に、「だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし」と答えたはずです。
でも語り手はもっと「だいじょうぶ」を構築しようとして、みずから「だいじょうぶ」の根拠を解体してしまうくらい〈答えすぎ〉てしまったのがこの短歌なのではないでしょうか。
じゃあ、なぜそんなことが起きてしまったのか。
わたしは、こんなふうにおもうんです。
この57577としての短歌の距離が、短歌としての旅が、語り手にとっては長すぎたのではないかと。
これが、575なら、語り手は、「だいじょうぶ」をきちんと質問者に与えられたはずです。
ところがこれは短歌だったので、まだ77という路程がありました。
だから、語り手は下の句のぶん、まだ旅をしなければならなかった。
ところがその〈旅〉をしたとたんに、「だいじょうぶ」の根拠だったはずの「急ぐ旅ではないのだし」をみずから「急いでないし 旅でもないし」とぎゃくにくつがえしてしまった。
語り手にとって短歌という〈旅〉は長すぎたし、〈急ぎすぎ〉た。
それがこの短歌の語り手の〈だいじょうぶ〉ということばを発し、あいてに対して誠実に短歌的に応答しようとしたがための短歌的〈不安定感〉になっているのではないかとおもうのです。
けれども、たぶん、短歌を旅する、ってそういうみずからのことばのゆらぎに身を投げ入れ、そのゆらぎをゆらぎのままに書き留めるということではないかとおもうのです。
だからわたしは、この短歌には、短歌としての、短歌が短歌を旅するダイナミズムが十二分にあるのではないかとおもいます。
短歌=定型という旅は、その意味で、あまりにも長い旅路なのだとおもいます。
ひらかないほうのとびらにもたれれば僕らはいつでも移動の途中 宇都宮敦
【短歌を旅する-ショートソング・ロングジャーニー-】
枡野浩一さんにも〈さようなら〉を微分していくことで〈さようなら〉の意味が変わっていってしまう短歌がありましたが、宇都宮さんのこの短歌も「急ぐ旅」を語り手が微分していることに注目してみたいとおもいます。
大事なのは、「急ぐ旅ではない」と否定することと、「旅でもない」と否定することには、微妙だけれど決定的な違いが存在するということではないかとおもいます。
「急ぐ旅ではない」というのは、「急がない旅」=ゆっくりできる旅でもあるということで、とりあえず旅であるということは担保できます。「急ぐ旅ではない」というときに、回答として機能しているのは、急ぐか・どうかであった、旅かどうかではありません。
ところが語り手は結句でつけくわえて「旅でもないし」といっています。
これは質問者にとっては、予想外の〈回答〉だったとおもいます。もし予想内ならわざわざここで付加して答える必要はないからです。わざわざ付加したのは「旅でもない」んだよ、ということを伝えるためです。
ここまできておもうことは、次のことです。
ほんとうに、「だいじょうぶ」なのか、と。
語り手は、おそらく、「この旅は急ぐ旅なのかどうか」という質問に、「だいじょうぶ 急ぐ旅ではないのだし」と答えたはずです。
でも語り手はもっと「だいじょうぶ」を構築しようとして、みずから「だいじょうぶ」の根拠を解体してしまうくらい〈答えすぎ〉てしまったのがこの短歌なのではないでしょうか。
じゃあ、なぜそんなことが起きてしまったのか。
わたしは、こんなふうにおもうんです。
この57577としての短歌の距離が、短歌としての旅が、語り手にとっては長すぎたのではないかと。
これが、575なら、語り手は、「だいじょうぶ」をきちんと質問者に与えられたはずです。
ところがこれは短歌だったので、まだ77という路程がありました。
だから、語り手は下の句のぶん、まだ旅をしなければならなかった。
ところがその〈旅〉をしたとたんに、「だいじょうぶ」の根拠だったはずの「急ぐ旅ではないのだし」をみずから「急いでないし 旅でもないし」とぎゃくにくつがえしてしまった。
語り手にとって短歌という〈旅〉は長すぎたし、〈急ぎすぎ〉た。
それがこの短歌の語り手の〈だいじょうぶ〉ということばを発し、あいてに対して誠実に短歌的に応答しようとしたがための短歌的〈不安定感〉になっているのではないかとおもうのです。
けれども、たぶん、短歌を旅する、ってそういうみずからのことばのゆらぎに身を投げ入れ、そのゆらぎをゆらぎのままに書き留めるということではないかとおもうのです。
だからわたしは、この短歌には、短歌としての、短歌が短歌を旅するダイナミズムが十二分にあるのではないかとおもいます。
短歌=定型という旅は、その意味で、あまりにも長い旅路なのだとおもいます。
ひらかないほうのとびらにもたれれば僕らはいつでも移動の途中 宇都宮敦
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