【短歌】薄暗い…(「第79回 短歌ください(お題:初体験)」『ダ・ヴィンチ』2014年11月号掲載 穂村弘 選)
- 2014/10/06
- 12:20
薄暗い九割マスクの電車内〈#いますこしゆれた〉のタグばかりもつ 柳本々々
(「第79回 短歌ください(お題:初体験)穂村弘 選」『ダ・ヴィンチ』2014年11月号)
【〈だれ〉が〈だれ〉になろうとしているのか】
選者の穂村弘さんから上記のコメントをいただきました。ありがとうございました!
『週刊俳句 Haiku Weekly』の359号の特集が『週刊俳句 特集 「三年目の3.11」』(2014年3月9日)だったんです。
そこに関悦史さんの「関悦史「震災関連」文集 2) わたしの一句《Eカップとわれも名乗らん春の地震》 」という記事があるんですが、この「Eカップ」の句は、被災のさなか「報道(機関の無視)による二重災害を減らすため、救援物資の乾物を齧りつつパソコンに連日貼りつくこととなった」関さんが「《みんな殺伐としているからツイートの最後に「ちなみにEカップです」とつけるとよいと思う》という誰かの書き込みが流れてきたのに呼応し」てつくった句です。
ここにはふたつの大事な点があるようにおもうんです。
ひとつは、ツイッターをとおした震災の言語化の関係、もうひとつは、その言語化の際にズレつつも今ある状況をズラすことによってもういちど〈現実〉に眼を向けてゆくための言語実践です。
「あ、いまゆれた!」というツイート(ビジョン)があったとします。
これに、「あ、いまゆれた!ちなみにEカップです」と付加することによって異本(バージョン)がつくられます。
バージョンがつくられることによってズレが生じますが、そのズレを距離としてもういちどじぶんがいまここにいる〈現実〉の状況をみなおすことができる。
Eカップとわれも名乗らん春の地震 関悦史
この関さんの句には、そういった〈Eカップ〉付加によるバージョンをつくることでビジョンを見直す、記述を相対化するという意味合いがあるようにもおもうんです。
ちなみに、この関さんのツイートを〈みつづけ〉ながら、関さんそのものを季語化することで関さん自体の異本(バージョン)をつくったのが、御中虫さんの句集『関揺れる』だとおもいます。
ここには〈関〉が揺れつつも、〈だれ〉がみて、〈どう〉受容されて、〈どこ〉で再記述化されて、そして〈わたし〉がどう〈ゆれ〉ているのかがあらわれていたようにおもいます。
このTwitterというメディアには、ハッシュタグという同じ話題を共有しているハイパーリンク機能があるんですが、このようなタグをうたった短歌に伊舎堂仁さんのこんな歌があります。
♯〈ハッシュタグ〉とは一文字の野心ですずらっと並べて網戸のむこう 伊舎堂仁
#########がハイパーテキストとして並んでいる「網戸」の視覚イメージがありながらも、「むこう」と一枚岩的に表現することによって、ここにはハッシュタグを媒介にして浮かび上がってくる〈共同幻想〉のようなものが感じられるのではないかとおもいます。
Twitterは、ことばの連なりが、タイムラインというめいめいの偶発性により文脈を〈ひっちゃかめっちゃか〉化させるのが特徴的だと思うんですが、ハッシュタグはハイパーリンクのため、〈むこう〉として共同化できる。
たとえば歌にある「野心」にはそうした意味の一義性、偶発性から必然性への意味のベクトルが見いだせるようにもおもいます。
偶発性と必然性のいりみだれた〈無為の共同体〉をたえず生成するメディアとして、ツイッターがあった。そんなふうにいえるのではないかとおもうんです。
震災とことばの関係。震災と再話化の関係。震災と位置性の関係。
〈だれ〉が、〈なに〉を、〈どこ〉から、〈どの〉メディアをとおして、再記述化することによって、〈ゆれ〉ているのか。
そしてそのことによってその〈だれ〉は、〈だれ〉になろうとしているのか。
そのことをときどき、かんがえています。
非常口となりますので物等を置かないで下さい が揺れてる 伊舎堂仁
(「第79回 短歌ください(お題:初体験)穂村弘 選」『ダ・ヴィンチ』2014年11月号)
【〈だれ〉が〈だれ〉になろうとしているのか】
震災の後の光景でしょうか。個人ではなく、全人類にとっての初体験。まるでディストピアを描いたSFみたいだけど、紛れもない現実ってことに愕然とします。
選者の穂村弘さんから上記のコメントをいただきました。ありがとうございました!
『週刊俳句 Haiku Weekly』の359号の特集が『週刊俳句 特集 「三年目の3.11」』(2014年3月9日)だったんです。
そこに関悦史さんの「関悦史「震災関連」文集 2) わたしの一句《Eカップとわれも名乗らん春の地震》 」という記事があるんですが、この「Eカップ」の句は、被災のさなか「報道(機関の無視)による二重災害を減らすため、救援物資の乾物を齧りつつパソコンに連日貼りつくこととなった」関さんが「《みんな殺伐としているからツイートの最後に「ちなみにEカップです」とつけるとよいと思う》という誰かの書き込みが流れてきたのに呼応し」てつくった句です。
ここにはふたつの大事な点があるようにおもうんです。
ひとつは、ツイッターをとおした震災の言語化の関係、もうひとつは、その言語化の際にズレつつも今ある状況をズラすことによってもういちど〈現実〉に眼を向けてゆくための言語実践です。
「あ、いまゆれた!」というツイート(ビジョン)があったとします。
これに、「あ、いまゆれた!ちなみにEカップです」と付加することによって異本(バージョン)がつくられます。
バージョンがつくられることによってズレが生じますが、そのズレを距離としてもういちどじぶんがいまここにいる〈現実〉の状況をみなおすことができる。
Eカップとわれも名乗らん春の地震 関悦史
この関さんの句には、そういった〈Eカップ〉付加によるバージョンをつくることでビジョンを見直す、記述を相対化するという意味合いがあるようにもおもうんです。
ちなみに、この関さんのツイートを〈みつづけ〉ながら、関さんそのものを季語化することで関さん自体の異本(バージョン)をつくったのが、御中虫さんの句集『関揺れる』だとおもいます。
ここには〈関〉が揺れつつも、〈だれ〉がみて、〈どう〉受容されて、〈どこ〉で再記述化されて、そして〈わたし〉がどう〈ゆれ〉ているのかがあらわれていたようにおもいます。
このTwitterというメディアには、ハッシュタグという同じ話題を共有しているハイパーリンク機能があるんですが、このようなタグをうたった短歌に伊舎堂仁さんのこんな歌があります。
♯〈ハッシュタグ〉とは一文字の野心ですずらっと並べて網戸のむこう 伊舎堂仁
#########がハイパーテキストとして並んでいる「網戸」の視覚イメージがありながらも、「むこう」と一枚岩的に表現することによって、ここにはハッシュタグを媒介にして浮かび上がってくる〈共同幻想〉のようなものが感じられるのではないかとおもいます。
Twitterは、ことばの連なりが、タイムラインというめいめいの偶発性により文脈を〈ひっちゃかめっちゃか〉化させるのが特徴的だと思うんですが、ハッシュタグはハイパーリンクのため、〈むこう〉として共同化できる。
たとえば歌にある「野心」にはそうした意味の一義性、偶発性から必然性への意味のベクトルが見いだせるようにもおもいます。
偶発性と必然性のいりみだれた〈無為の共同体〉をたえず生成するメディアとして、ツイッターがあった。そんなふうにいえるのではないかとおもうんです。
震災とことばの関係。震災と再話化の関係。震災と位置性の関係。
〈だれ〉が、〈なに〉を、〈どこ〉から、〈どの〉メディアをとおして、再記述化することによって、〈ゆれ〉ているのか。
そしてそのことによってその〈だれ〉は、〈だれ〉になろうとしているのか。
そのことをときどき、かんがえています。
非常口となりますので物等を置かないで下さい が揺れてる 伊舎堂仁
引用の中では常にバージョン(異本)が発生します。バージョンはズレですから。その中に行為体(エイジェンシー)を立てることができる。
上野千鶴子『現代思想 ジェンダー・スタディーズ』
上野千鶴子『現代思想 ジェンダー・スタディーズ』
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