【感想】目を閉じた人から順に夏になる光の中で君に出会った 木下侑介
- 2014/10/06
- 19:28
目を閉じた人から順に夏になる光の中で君に出会った 木下侑介
【法と私】
わたしはそうだったんですが、書籍化された『短歌ください』を読んでいるうちにすぐに名前を覚えるのが、木下侑助さんの名前だとおもうんです。
その木下さんから一首です。
私がこの短歌でおもしろいなと思ったのは、法と(一回性の)出来事が混在している点です。
法 (目を閉じた人から順に夏になる)
出来事(光の中で君に出会った)
こんなふうにわけてみました。
「目を閉じた人から順に夏になる」というのは、〈法〉です。語り手があらかじめ知っているこの世界の規則です。
規則なのでこんなふうにもしっくりあてはめることができます。たとえば、「この国では〈目を閉じた人から順に夏になる〉んです」と(不思議な国から国へ旅をするキノに話しかけるみたいに。参照:時雨沢恵一『キノの旅』)。
その一方で「光の中で君に出会った」というのは一回的な出来事です。これは規則でも法でもないし、なんども再会する「会った」でもない。一回的な〈出会い〉です。
法というのはルールなので、反復性です。一回性の対極にあり、どれだけ繰り返されようとも適用されるn回性が法です。
でもこの短歌では、その〈公〉としての〈法〉のなかにとつぜん〈私〉の〈出来事〉が接合されるそれがこの短歌の不思議なおもしろさになっているのではないかとおもいます。
そもそも「目を閉じる」という行為は、極私的な行為だとおもうんです。
目を閉じることによって〈公〉や〈法〉の適用される世界をシャットダウンして、ひとは夢をみたり、じぶんだけの闇の世界にアクセスする。
ところがこの歌では、「目を閉じる」という行為が、季節の循環を呼び込んでくるシステム化された法としてあり、その「目を閉じる」ことによって生じた「光の中で君に出会」う。
「目を閉じる」という行為が、ここでは反転され、独自のルールを生成しながら、公と私を接合する装置になっている。
こうした〈目を閉じる〉ということの極私的行為を反転していくダイナミズムがおもしろいとおもいます。
目を閉じるたびに光が死ぬことや目を開けるたび闇が死ぬこと 木下侑介
【法と私】
わたしはそうだったんですが、書籍化された『短歌ください』を読んでいるうちにすぐに名前を覚えるのが、木下侑助さんの名前だとおもうんです。
その木下さんから一首です。
私がこの短歌でおもしろいなと思ったのは、法と(一回性の)出来事が混在している点です。
法 (目を閉じた人から順に夏になる)
出来事(光の中で君に出会った)
こんなふうにわけてみました。
「目を閉じた人から順に夏になる」というのは、〈法〉です。語り手があらかじめ知っているこの世界の規則です。
規則なのでこんなふうにもしっくりあてはめることができます。たとえば、「この国では〈目を閉じた人から順に夏になる〉んです」と(不思議な国から国へ旅をするキノに話しかけるみたいに。参照:時雨沢恵一『キノの旅』)。
その一方で「光の中で君に出会った」というのは一回的な出来事です。これは規則でも法でもないし、なんども再会する「会った」でもない。一回的な〈出会い〉です。
法というのはルールなので、反復性です。一回性の対極にあり、どれだけ繰り返されようとも適用されるn回性が法です。
でもこの短歌では、その〈公〉としての〈法〉のなかにとつぜん〈私〉の〈出来事〉が接合されるそれがこの短歌の不思議なおもしろさになっているのではないかとおもいます。
そもそも「目を閉じる」という行為は、極私的な行為だとおもうんです。
目を閉じることによって〈公〉や〈法〉の適用される世界をシャットダウンして、ひとは夢をみたり、じぶんだけの闇の世界にアクセスする。
ところがこの歌では、「目を閉じる」という行為が、季節の循環を呼び込んでくるシステム化された法としてあり、その「目を閉じる」ことによって生じた「光の中で君に出会」う。
「目を閉じる」という行為が、ここでは反転され、独自のルールを生成しながら、公と私を接合する装置になっている。
こうした〈目を閉じる〉ということの極私的行為を反転していくダイナミズムがおもしろいとおもいます。
目を閉じるたびに光が死ぬことや目を開けるたび闇が死ぬこと 木下侑介
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