【感想】外套のままの仮寝に父の霊 八田木枯/外套のままのひる寝にあらわれて父よりほかの霊と思えず 寺山修司
- 2014/10/06
- 22:16
外套のままの仮寝に父の霊 八田木枯
外套のままのひる寝にあらわれて父よりほかの霊と思えず 寺山修司
【確定的亡霊とためらいの亡霊】
寺山修司についてよく出る話題が寺山修司の短歌における俳句の〈短歌化〉の問題。
これは〈剽窃〉なのではないか、それとも〈本歌取り〉なのか、といった話題だとおもうんですが、ひとまずそれを横において、では俳句が短歌化された場合にいったいなにが変わってしまうのか、それによってどういうことがわかるのかをすこしかんがえてみたいとおもいます。
まず違いは、「仮寝」と「ひる寝」にあります。
「仮寝」の場合、「うたた寝」という意味もありますが、「野宿」という意味もあります。
だから「外套のままの仮寝」がもし野宿しているなら、外套を着て寝ていることはナチュラルであり、自然な主体だということができます。
だからここでは自然な主体が霊をみているということであり、霊をみるという行為もナチュラルな時間の流れのなかで遂行されています。
寺山がこの「仮寝」を「ひる寝」と書き換えることによってなにが変わってくるかというと、室内で外套を着たまま昼寝してしまうという〈異質な主体〉です。
その不自然な主体の空間が、霊をひきよせているという事態です。
ここでは、ふだんは外套を着て寝ないのに、外套を着て寝てしまったという演劇的行為(ドラマとはふだんは生じない葛藤のこと)が霊をひきよせたという〈作劇効果〉をうんでいます。
もうひとつは、「父の霊」が「父よりほかの霊と思えず」と、確定記述がブレていることです。
「父よりほかの霊と思え」ないのだけれども、思っているのは語り手であり、ほかの霊かもしれません。
ここでは定型がより長くなったことで、確信的な俳句の知のありようが、ためらい的な短歌の知のありようへと変化しています。
確信知から、ためらい知へ。
ここには、語りの長さがどう〈知〉とかかわってくるのかというテーマがひそんでいるようにもおもいます。
こんなふうにモードの変更によっていったい様相がどう変わってしまうのかを含めてかんがえてみるとすこしおもしろいようにもおもいます。
外套のままのひる寝にあらわれて父よりほかの霊と思えず 寺山修司
【確定的亡霊とためらいの亡霊】
寺山修司についてよく出る話題が寺山修司の短歌における俳句の〈短歌化〉の問題。
これは〈剽窃〉なのではないか、それとも〈本歌取り〉なのか、といった話題だとおもうんですが、ひとまずそれを横において、では俳句が短歌化された場合にいったいなにが変わってしまうのか、それによってどういうことがわかるのかをすこしかんがえてみたいとおもいます。
まず違いは、「仮寝」と「ひる寝」にあります。
「仮寝」の場合、「うたた寝」という意味もありますが、「野宿」という意味もあります。
だから「外套のままの仮寝」がもし野宿しているなら、外套を着て寝ていることはナチュラルであり、自然な主体だということができます。
だからここでは自然な主体が霊をみているということであり、霊をみるという行為もナチュラルな時間の流れのなかで遂行されています。
寺山がこの「仮寝」を「ひる寝」と書き換えることによってなにが変わってくるかというと、室内で外套を着たまま昼寝してしまうという〈異質な主体〉です。
その不自然な主体の空間が、霊をひきよせているという事態です。
ここでは、ふだんは外套を着て寝ないのに、外套を着て寝てしまったという演劇的行為(ドラマとはふだんは生じない葛藤のこと)が霊をひきよせたという〈作劇効果〉をうんでいます。
もうひとつは、「父の霊」が「父よりほかの霊と思えず」と、確定記述がブレていることです。
「父よりほかの霊と思え」ないのだけれども、思っているのは語り手であり、ほかの霊かもしれません。
ここでは定型がより長くなったことで、確信的な俳句の知のありようが、ためらい的な短歌の知のありようへと変化しています。
確信知から、ためらい知へ。
ここには、語りの長さがどう〈知〉とかかわってくるのかというテーマがひそんでいるようにもおもいます。
こんなふうにモードの変更によっていったい様相がどう変わってしまうのかを含めてかんがえてみるとすこしおもしろいようにもおもいます。
「青い種子は太陽の中にある ジュリアン・ソレル」
寺山修司のこの偽エピグラムについては、いまだ指摘されていない、もう一つ興味深い事柄があります。
それは、スタンダールの『赤と黒』の小説も偽エピグラムだらけな作品ということです。
各章はエピグラムで始まり、そのほとんどは名前が違うか、まったくの創作です。
つまり、寺山は『チエホフ祭』で中村草田男の俳句内容を引用した上で、スタンダールの方法をも引用したということでもあるのです。
二重の剽窃(草田男などからの模倣および自作句からの自己模倣)はもうひとつ加わり、三重の剽窃だったのではないでしょうか?
三重の剽窃でありながら、これによってこの作品は三倍面白くなると思います。
スティーヴン・クラーク「寺山修司・ミッキーマウス・青ひげ」『剽窃・模倣・オリジナリティ-日本文学の想像力を問う』
寺山修司のこの偽エピグラムについては、いまだ指摘されていない、もう一つ興味深い事柄があります。
それは、スタンダールの『赤と黒』の小説も偽エピグラムだらけな作品ということです。
各章はエピグラムで始まり、そのほとんどは名前が違うか、まったくの創作です。
つまり、寺山は『チエホフ祭』で中村草田男の俳句内容を引用した上で、スタンダールの方法をも引用したということでもあるのです。
二重の剽窃(草田男などからの模倣および自作句からの自己模倣)はもうひとつ加わり、三重の剽窃だったのではないでしょうか?
三重の剽窃でありながら、これによってこの作品は三倍面白くなると思います。
スティーヴン・クラーク「寺山修司・ミッキーマウス・青ひげ」『剽窃・模倣・オリジナリティ-日本文学の想像力を問う』
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