【感想】ああ海が見えるじゃないか柳谷さん自殺しなくてよかったですね 柳谷あゆみ
- 2014/05/04
- 20:10
ああ海が見えるじゃないか柳谷さん自殺しなくてよかったですね 柳谷あゆみ
【柳谷さん、という位相-語りかける柳谷さんと語りかけられる柳谷さん-】
この短歌の「柳谷さん」という呼びかけに注目してみたいとおもうんです。この短歌の重心はこの「柳谷さん」という語りかけのことばを語り手が見いだせたところにあるのではないかと。
この歌がのっている歌集の著者名は「柳谷あゆみ」です。だからこの著者名をコンテクストにするならば、この「柳谷さん」は〈柳谷あゆみさん〉と意味をくみとることができます。同時にこの短歌の語り手の属性をかんがえるならばこの短歌の語り手もまた〈柳谷あゆみ〉とみることもできるはずです。
つまりこの歌は〈柳谷あゆみ〉をコンテクストにして読んでみるならば、語り手の自己言及の歌だということになります。
その場合、ふしぎなのは、自己言及にもかかわらず「さん」という接尾語をつけていることです。
この相手とある一定の距離感をとる接尾語「さん」を「柳谷」につけることによって語り手は〈語る柳谷さん〉と〈語られる柳谷さん〉に分裂します。
初句からの「ああ海が見えるじゃないか」と海を見ている主体は、〈語られる柳谷さん〉に語りかけている〈語る柳谷さん〉です。〈語られる柳谷さん〉も「ああ海が見えるじゃないか」と「か」によって同意を求められているように海を見ることができるポジショニングにいます。なぜなら〈語る柳谷さん〉と〈語られる柳谷さん〉の身体はおそらく同一だからです。身体はいっしょですが、ここでは言説上、柳谷さんがふたつに分裂しています。
この言説上の分裂から〈語る柳谷さん〉は下の句の「自殺しなくてよかったですね」とある一定の距離をあけて〈語られる柳谷さん〉に話しかけることができます。
ここでこの短歌につかわれている「見える」と「自殺する」というふたつの動詞が生きてきます。
「見える」というのはある視点から物事や「海」を見ることであり、その視点はただひとりだけがひとつの視点としてもつことができるものです。ただしこの場合、「ああ海が見えるじゃないか」と同意を求めているように、「海」は視点のポイントは異なりますが、共有される視点としていっしょに「見」ることができます。だからこの「見える」にはまだふたりの〈柳谷さん〉が「海」をみています。ああ海が見えるじゃないか、と語りかける柳谷さんと、ああ海が見えるたしかに、と語りかけられた柳谷さんです。
しかしつぎの「自殺」は、「自殺」することができるのはあくまで「ひとり」でたった「一回」きりです。ここでは「海」のように異なる視点の共有はできません。〈語る柳谷さん〉も〈語られる柳谷さん〉も同一化された主体として「自殺」しなければならない。
つまり裏をかえせばこういうことなのではないかと思うのです。「柳谷さん」という語りかけられることばを語り手が手に入れられたときに、はじめて「自殺」が「自殺」化できなくなったのではないかと。「自殺」を遂行できるような主体を担保することに失敗してしまったのではないかと。「海」を違った視点から共有するような語りかけ、語りかけられる主体とはそのようなものではないかとおもうのです。
言うことの仕方とは、その言われたことがそこから、かつそこに向けて調律されているような音調である。
ハイデッガー「思惟とは何か」
【柳谷さん、という位相-語りかける柳谷さんと語りかけられる柳谷さん-】
この短歌の「柳谷さん」という呼びかけに注目してみたいとおもうんです。この短歌の重心はこの「柳谷さん」という語りかけのことばを語り手が見いだせたところにあるのではないかと。
この歌がのっている歌集の著者名は「柳谷あゆみ」です。だからこの著者名をコンテクストにするならば、この「柳谷さん」は〈柳谷あゆみさん〉と意味をくみとることができます。同時にこの短歌の語り手の属性をかんがえるならばこの短歌の語り手もまた〈柳谷あゆみ〉とみることもできるはずです。
つまりこの歌は〈柳谷あゆみ〉をコンテクストにして読んでみるならば、語り手の自己言及の歌だということになります。
その場合、ふしぎなのは、自己言及にもかかわらず「さん」という接尾語をつけていることです。
この相手とある一定の距離感をとる接尾語「さん」を「柳谷」につけることによって語り手は〈語る柳谷さん〉と〈語られる柳谷さん〉に分裂します。
初句からの「ああ海が見えるじゃないか」と海を見ている主体は、〈語られる柳谷さん〉に語りかけている〈語る柳谷さん〉です。〈語られる柳谷さん〉も「ああ海が見えるじゃないか」と「か」によって同意を求められているように海を見ることができるポジショニングにいます。なぜなら〈語る柳谷さん〉と〈語られる柳谷さん〉の身体はおそらく同一だからです。身体はいっしょですが、ここでは言説上、柳谷さんがふたつに分裂しています。
この言説上の分裂から〈語る柳谷さん〉は下の句の「自殺しなくてよかったですね」とある一定の距離をあけて〈語られる柳谷さん〉に話しかけることができます。
ここでこの短歌につかわれている「見える」と「自殺する」というふたつの動詞が生きてきます。
「見える」というのはある視点から物事や「海」を見ることであり、その視点はただひとりだけがひとつの視点としてもつことができるものです。ただしこの場合、「ああ海が見えるじゃないか」と同意を求めているように、「海」は視点のポイントは異なりますが、共有される視点としていっしょに「見」ることができます。だからこの「見える」にはまだふたりの〈柳谷さん〉が「海」をみています。ああ海が見えるじゃないか、と語りかける柳谷さんと、ああ海が見えるたしかに、と語りかけられた柳谷さんです。
しかしつぎの「自殺」は、「自殺」することができるのはあくまで「ひとり」でたった「一回」きりです。ここでは「海」のように異なる視点の共有はできません。〈語る柳谷さん〉も〈語られる柳谷さん〉も同一化された主体として「自殺」しなければならない。
つまり裏をかえせばこういうことなのではないかと思うのです。「柳谷さん」という語りかけられることばを語り手が手に入れられたときに、はじめて「自殺」が「自殺」化できなくなったのではないかと。「自殺」を遂行できるような主体を担保することに失敗してしまったのではないかと。「海」を違った視点から共有するような語りかけ、語りかけられる主体とはそのようなものではないかとおもうのです。
言うことの仕方とは、その言われたことがそこから、かつそこに向けて調律されているような音調である。
ハイデッガー「思惟とは何か」
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