【感想】中家菜津子「きょりわるじかん」『詩客』2013/11/8
- 2014/10/08
- 12:00
うたたねのまぶたにあわく陽はさして闇にひとすじはちみつたらす 中家菜津子
【電車のじかん、わたしのじかん、君のじかん】
中家さんの連作「きょりわるじかん」からの一首です。
この連作には詞書がついていて、そのなかに「電車を流れている時間は、わたしを流れる時間に、やや遅れてやってくる。先頭車両から前方を眺めても線路上の一点に今という瞬間は定まらない。見渡せば横たわる距離
があるだけだ」と書かれています。
この詞書からわかるのは、電車と電車のなかにいるわたしが共有する「距離」は同じなのだけれども、「電車を流れている時間」と「わたしを流れる時間」は違うのだということではないかとおもいます。
距離が同じでも時間がちがえば、「きょりわるじかん」の公式にあてはめた場合、ちがってくるのは「はやさ」です。
電車の「はやさ」とわたしの「はやさ」がある。
うたたねのまぶたにあわく陽はさして闇にひとすじはちみつたらす 中家菜津子
この歌の前にトンネルの歌があるので、たとえばこの歌において電車のなかにいる〈わたし〉はトンネルを出たばかりで「うたたねのまぶたにあわく陽」がさしたのだとかんがえてみます。
そのさした陽が「闇にひとすじはちみつたらす」と隠喩で置き換えられるんですが、このはちみつが上から下に落ちてゆく「きょり」に語り手だけがもつ時間があるようにおもいます。
ことばをもたない電車は横の運動であり、横の「きょり」しかもてませんが、ことばをもちながら電話のなかにいる語り手がもてるのは横の「きょり」と同時に縦の「きょり」でもあります。
たてかけた傘は倒れて晴天の車内に雨の匂いは残る 中家菜津子
はじまりとおわりはわたしが決めること檸檬は荷から床にころがる 〃
上から下へと倒れる傘。荷から床へところがる檸檬。
こうした電車の横のきょりとクロスするかたちで〈わたし〉だけがみいだしているわたしの縦のきょりに注意がそそがれています。
そもそもこのわたしの縦のきょりは予告/予期されていたものだったのではないかとおもいます。
ポケットに切符を探している人がポプラのように改札に立つ 中家菜津子
連作のいちばんはじめの歌です。
「立つ」ということばにあらわれているようにここはこれからの縦のきょりが暗示されています。この連作のはじめに語り手は縦のきょりを電車に乗る前に〈発見〉していたのです。
「ポプラのように」という直喩も暗示的です。ポプラほど、縦の垂直の線をさししめす樹もないからです。
だからこの横としての電車のきょりや、縦としての〈わたし〉のきょりではなく、「君までのきょり」を君を終点にしたきょりがあらわれたときに「ひかり」があらわれたのは興味深いことだとおもいます。
観測者(の速度)によって相対速度が変化しないといわれている「ひかり」(光速度不変の原理)があらわれることによって、そこには「きみ」の「はやさ」の〈絶対性〉があらわれるからです。つまり、
君までのきょりわるじかん、それははやさ。ひかりの帯となりゆく列車 中家菜津子
【電車のじかん、わたしのじかん、君のじかん】
中家さんの連作「きょりわるじかん」からの一首です。
この連作には詞書がついていて、そのなかに「電車を流れている時間は、わたしを流れる時間に、やや遅れてやってくる。先頭車両から前方を眺めても線路上の一点に今という瞬間は定まらない。見渡せば横たわる距離
があるだけだ」と書かれています。
この詞書からわかるのは、電車と電車のなかにいるわたしが共有する「距離」は同じなのだけれども、「電車を流れている時間」と「わたしを流れる時間」は違うのだということではないかとおもいます。
距離が同じでも時間がちがえば、「きょりわるじかん」の公式にあてはめた場合、ちがってくるのは「はやさ」です。
電車の「はやさ」とわたしの「はやさ」がある。
うたたねのまぶたにあわく陽はさして闇にひとすじはちみつたらす 中家菜津子
この歌の前にトンネルの歌があるので、たとえばこの歌において電車のなかにいる〈わたし〉はトンネルを出たばかりで「うたたねのまぶたにあわく陽」がさしたのだとかんがえてみます。
そのさした陽が「闇にひとすじはちみつたらす」と隠喩で置き換えられるんですが、このはちみつが上から下に落ちてゆく「きょり」に語り手だけがもつ時間があるようにおもいます。
ことばをもたない電車は横の運動であり、横の「きょり」しかもてませんが、ことばをもちながら電話のなかにいる語り手がもてるのは横の「きょり」と同時に縦の「きょり」でもあります。
たてかけた傘は倒れて晴天の車内に雨の匂いは残る 中家菜津子
はじまりとおわりはわたしが決めること檸檬は荷から床にころがる 〃
上から下へと倒れる傘。荷から床へところがる檸檬。
こうした電車の横のきょりとクロスするかたちで〈わたし〉だけがみいだしているわたしの縦のきょりに注意がそそがれています。
そもそもこのわたしの縦のきょりは予告/予期されていたものだったのではないかとおもいます。
ポケットに切符を探している人がポプラのように改札に立つ 中家菜津子
連作のいちばんはじめの歌です。
「立つ」ということばにあらわれているようにここはこれからの縦のきょりが暗示されています。この連作のはじめに語り手は縦のきょりを電車に乗る前に〈発見〉していたのです。
「ポプラのように」という直喩も暗示的です。ポプラほど、縦の垂直の線をさししめす樹もないからです。
だからこの横としての電車のきょりや、縦としての〈わたし〉のきょりではなく、「君までのきょり」を君を終点にしたきょりがあらわれたときに「ひかり」があらわれたのは興味深いことだとおもいます。
観測者(の速度)によって相対速度が変化しないといわれている「ひかり」(光速度不変の原理)があらわれることによって、そこには「きみ」の「はやさ」の〈絶対性〉があらわれるからです。つまり、
君までのきょりわるじかん、それははやさ。ひかりの帯となりゆく列車 中家菜津子
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