【感想】つぎつぎと夜のプールの水面を飛びだしてくる椅子や挫折が 山下一路
- 2014/10/08
- 12:36
つぎつぎと夜のプールの水面を飛びだしてくる椅子や挫折が 山下一路
【ボルヘスから考える短歌】
この山下さんの歌でおもしろいのは、「椅子や挫折が」と文法上「椅子」と「挫折」が並列化されることで、「挫折」が物質化してしまうところにあるとおもうんです。
観念の物質化。
そんなときにふっと思い出したのが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」です。
ちょっと長くなりますが、ボルヘスのその短篇を解説した一文を引いてみます。
上のような、観念(内面)がそのまま歴史や現実や真実になる世界をボルヘスは短篇として描いたといえるとおもいます(これはボルヘスの書く短篇全体にいえることで、外側からラベリングされ規定されるよりも、内面の組み合わせによっていかに無限・無規定の世界がたちあらわれるかというテーマがあります)。
この山下さんの短歌は、たぶん、現実世界の枠組みで読むと、「挫折」が「飛びだしてくる」点においてつまずくとおもいます。というよりも、「水面」に飛びこんでいくのではなく、「水面を飛びだしてくる」点で、すでに現実世界の枠組みの慣性には逆らっています。
しかしこれがボルヘスの描いた世界「トレーン」のように、観念がそのまま現実化していくような世界なら別です。
ここには語り手がいま「夜のプール」を前にして〈思っていること〉が物質化されて飛び出してきている。
このプールの水面下から水面をつきぬける境界上がこの語り手にとって〈トレーン〉だったのではないか。
そんなふうにボルヘスを経由しながら山下さんの短歌についてかんがえてみました。
ちなみにラテンアメリカの作家は、ガルシア=マルケスなんかがそうですが、カフカがだいすきです。
ドアすこし開けたままの先生を俺のザムザがすり抜けてゆく 山下一路
【ボルヘスから考える短歌】
トレーンは徹底した唯心論の国であり、トレーンには物とか実体を指す名詞は存在しない。月に相当する単語はこの国にはなくて、「月が上にのぼった」と言おうとすれば、「流れつづける/その上のうしろのほうでそれは月した」と言うしかない。
中村健二『ボルヘスのイギリス文学講義』
中村健二『ボルヘスのイギリス文学講義』
この山下さんの歌でおもしろいのは、「椅子や挫折が」と文法上「椅子」と「挫折」が並列化されることで、「挫折」が物質化してしまうところにあるとおもうんです。
観念の物質化。
そんなときにふっと思い出したのが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短篇「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」です。
ちょっと長くなりますが、ボルヘスのその短篇を解説した一文を引いてみます。
ボルヘスは、このうえなく創意と揶揄に富む小説の一篇で、全文化が観念を最も重視する惑星を描いている。
トレーンには物がなく、言語には本来、物を名づける名詞がなかった。トレーンの住民は科学を信奉しない、物体のない世界には自然の法則もないからだ。実はその逆で、観念が物質化されるにつれて現実が存在するようになる。
トレーンの考えかたによれば、未来は人々が期待したとおりのものになり、過去はなんであれ人々が記憶していることにすぎない。その結果、過去も未来と同様、影響を受けやすい。考古学の歴史の記述を証明しそうな物の名前をつけさえすれば、その物がやがて確実に出現する。逆に、覚えている人が誰もいなくなるやいなや古い建物は崩壊しはじめる。
トレーンで主流の知的学問は心理学である。一方、哲学は幻想文学の一部門にすぎない。
ベルシー『文化と現実界』
トレーンには物がなく、言語には本来、物を名づける名詞がなかった。トレーンの住民は科学を信奉しない、物体のない世界には自然の法則もないからだ。実はその逆で、観念が物質化されるにつれて現実が存在するようになる。
トレーンの考えかたによれば、未来は人々が期待したとおりのものになり、過去はなんであれ人々が記憶していることにすぎない。その結果、過去も未来と同様、影響を受けやすい。考古学の歴史の記述を証明しそうな物の名前をつけさえすれば、その物がやがて確実に出現する。逆に、覚えている人が誰もいなくなるやいなや古い建物は崩壊しはじめる。
トレーンで主流の知的学問は心理学である。一方、哲学は幻想文学の一部門にすぎない。
ベルシー『文化と現実界』
上のような、観念(内面)がそのまま歴史や現実や真実になる世界をボルヘスは短篇として描いたといえるとおもいます(これはボルヘスの書く短篇全体にいえることで、外側からラベリングされ規定されるよりも、内面の組み合わせによっていかに無限・無規定の世界がたちあらわれるかというテーマがあります)。
この山下さんの短歌は、たぶん、現実世界の枠組みで読むと、「挫折」が「飛びだしてくる」点においてつまずくとおもいます。というよりも、「水面」に飛びこんでいくのではなく、「水面を飛びだしてくる」点で、すでに現実世界の枠組みの慣性には逆らっています。
しかしこれがボルヘスの描いた世界「トレーン」のように、観念がそのまま現実化していくような世界なら別です。
ここには語り手がいま「夜のプール」を前にして〈思っていること〉が物質化されて飛び出してきている。
このプールの水面下から水面をつきぬける境界上がこの語り手にとって〈トレーン〉だったのではないか。
そんなふうにボルヘスを経由しながら山下さんの短歌についてかんがえてみました。
ちなみにラテンアメリカの作家は、ガルシア=マルケスなんかがそうですが、カフカがだいすきです。
ドアすこし開けたままの先生を俺のザムザがすり抜けてゆく 山下一路
あらゆる哲学はもともと弁証法的な遊戯で、つまりアルス・オプの哲学であるという事実が、その数の増加に寄与している。信じがたいが、みごとに構築された、感動的な体系が多数ある。トレーンの哲学者たちは真理を、いや真理らしきものをさえ探求しない。彼らが求めるのは驚異である。哲学は幻想的な文学の一部門である、と彼らは考える。ひとつの体系とは、宇宙のあらゆる相の、あるひとつの相にたいする従属にほかならないことを知っている。「あらゆる相」という表現でさえしりぞけられねばならない。なぜならこれは、現在の瞬間とさまざまな過去のそれとの不可能な総和を予定するからだ。複数の「過去のそれ」というのも、べつの不可能な操作を前提とするので正しくない……。
ボルヘス「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」『伝奇集』
ボルヘス「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」『伝奇集』
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