【感想】ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ なかはられいこ
- 2014/10/09
- 12:53
ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ なかはられいこ
【崩壊ときれい】
なかはらさんのこの句で考えてみたいのは、なかはらさんはこの句が〈川柳〉というモードを脱けてしまったのではないか。
川柳の内側と外側に同時に立っているのがこの句なのではないかということです。
この句を読点を抜いたかたちにもどしてみます。
ビルがくず/れてゆくなんて/きれいきれ
この状態であればこの句は川柳のモードにかたちとしては見合うことができます。
ただ読点が入ったときこの句が志向しはじめたのは、〈川柳〉ではなく、〈短歌〉の方だったのではないかとおもうのです。
ビル、がく/、ずれて、ゆく/な、ん、て/きれ、いき、れ/●●●●●●●
不在の結句7音を最後に置くかたちで、ここには川柳でありながらも川柳にはなりきれず、短歌を志向しながらも短歌にもなりきれない〈はざま〉にうつろいつづける〈ことば〉としかいえないようななにかがあらわれてきます。
この句がたちあっているのは、「9・11」かもしれませんが、もっといえば、言語化不能な、ジャンル化不能な、形式化不能な語り手にとっての〈崩壊〉です。
それは〈崩壊〉を「きれい」に節合してしまったせつな、決定的な〈不在〉としてみずからの発話形態が〈崩壊〉してしまうような〈なにか〉です。
この〈崩壊ときれい〉の主題を〈詩〉で描いたひとに茨木のり子さんがいます。
少し長くなりますが一部引用してみます。
この茨木さんの詩においては、〈きれい〉が国の〈崩壊〉と掛け合わされることによって〈きれい〉の内実ひいては〈わたし〉の主体のありようがすかすかになっていくありようが描かれています。
「きれい」というのは他者が名指しし意味づけるものでありながら、その意味づけの体系としての大きな審級が〈戦争〉によって崩壊しています。
「わたしが一番きれいだ」としてもそれを名指しできる意味の体系が崩壊しているために、わたしの「きれい」はズレていきます。
「きれい」というのは、名指しした瞬間、意味づけた瞬間に、背景にある意味のシステムが問われる〈形容詞〉です。
そのものが「きれい」かどうかが問われるのではなく、それを「きれい」と名指ししたひとの〈背景〉が浮き彫りになるのが〈きれい〉という語用のありようなのではないかとおもいます。
そしてなかはらさんの句、茨木さんの詩、ともに、「きれい」と名指しされたとき、その名指しした者の背景は、かたちとして〈崩壊〉しています。
川柳が還るべき〈かたち〉を得られず、かたちとかたちのはざまで結語として「いき、れ」と、〈いきろ〉でもないかたちで、〈いきろ〉ともいえないかたちで、しかし「いき、れ」とかろうじて発話するかたちで永遠に発話の中止状態にいつづけること。
それがこのなかはらさんの句のいちめんだったのではないかと、おもいます。
病院の窓の向こうのオズの国 なかはられいこ
【崩壊ときれい】
なかはらさんのこの句で考えてみたいのは、なかはらさんはこの句が〈川柳〉というモードを脱けてしまったのではないか。
川柳の内側と外側に同時に立っているのがこの句なのではないかということです。
この句を読点を抜いたかたちにもどしてみます。
ビルがくず/れてゆくなんて/きれいきれ
この状態であればこの句は川柳のモードにかたちとしては見合うことができます。
ただ読点が入ったときこの句が志向しはじめたのは、〈川柳〉ではなく、〈短歌〉の方だったのではないかとおもうのです。
ビル、がく/、ずれて、ゆく/な、ん、て/きれ、いき、れ/●●●●●●●
不在の結句7音を最後に置くかたちで、ここには川柳でありながらも川柳にはなりきれず、短歌を志向しながらも短歌にもなりきれない〈はざま〉にうつろいつづける〈ことば〉としかいえないようななにかがあらわれてきます。
この句がたちあっているのは、「9・11」かもしれませんが、もっといえば、言語化不能な、ジャンル化不能な、形式化不能な語り手にとっての〈崩壊〉です。
それは〈崩壊〉を「きれい」に節合してしまったせつな、決定的な〈不在〉としてみずからの発話形態が〈崩壊〉してしまうような〈なにか〉です。
この〈崩壊ときれい〉の主題を〈詩〉で描いたひとに茨木のり子さんがいます。
少し長くなりますが一部引用してみます。
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた
茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた
茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」
この茨木さんの詩においては、〈きれい〉が国の〈崩壊〉と掛け合わされることによって〈きれい〉の内実ひいては〈わたし〉の主体のありようがすかすかになっていくありようが描かれています。
「きれい」というのは他者が名指しし意味づけるものでありながら、その意味づけの体系としての大きな審級が〈戦争〉によって崩壊しています。
「わたしが一番きれいだ」としてもそれを名指しできる意味の体系が崩壊しているために、わたしの「きれい」はズレていきます。
「きれい」というのは、名指しした瞬間、意味づけた瞬間に、背景にある意味のシステムが問われる〈形容詞〉です。
そのものが「きれい」かどうかが問われるのではなく、それを「きれい」と名指ししたひとの〈背景〉が浮き彫りになるのが〈きれい〉という語用のありようなのではないかとおもいます。
そしてなかはらさんの句、茨木さんの詩、ともに、「きれい」と名指しされたとき、その名指しした者の背景は、かたちとして〈崩壊〉しています。
川柳が還るべき〈かたち〉を得られず、かたちとかたちのはざまで結語として「いき、れ」と、〈いきろ〉でもないかたちで、〈いきろ〉ともいえないかたちで、しかし「いき、れ」とかろうじて発話するかたちで永遠に発話の中止状態にいつづけること。
それがこのなかはらさんの句のいちめんだったのではないかと、おもいます。
病院の窓の向こうのオズの国 なかはられいこ
災害について語ろうとする遭遇者の言葉は、知の体系を形作っている言語の総体(ボキャブラリ)が解体していくのに直面する。
この解体は、出来事を知的に把握しようとする遭遇者の能力を超えた、出来事の過剰に発するものである。
災害という出来事は、遭遇した者を凌駕していくものであるがゆえに、知の対象として把握・受容することが不可能なのである。
(……)
目撃した者が真に目撃者となるのは、出来事の過剰を前にしたみずからの受動性そのものを、逆説的ではあるが、証言する行為への誘い、みずからを凌駕したその過剰について伝達し告げ知らせるべき要請として経験していく、その過程においてである。
この伝達行為の枠外においては、どこにも災害という出来事は存在しない。
中良子編『災害の物語学』
この解体は、出来事を知的に把握しようとする遭遇者の能力を超えた、出来事の過剰に発するものである。
災害という出来事は、遭遇した者を凌駕していくものであるがゆえに、知の対象として把握・受容することが不可能なのである。
(……)
目撃した者が真に目撃者となるのは、出来事の過剰を前にしたみずからの受動性そのものを、逆説的ではあるが、証言する行為への誘い、みずからを凌駕したその過剰について伝達し告げ知らせるべき要請として経験していく、その過程においてである。
この伝達行為の枠外においては、どこにも災害という出来事は存在しない。
中良子編『災害の物語学』
- 関連記事
-
-
【感想】もうすこし私を待ってみるスタバ 八上桐子 2014/06/20
-
【感想】ひとり静『句集 海の鳥・空の魚Ⅱ』-ジャンプするたびにきらきらとする- 2014/06/17
-
【感想】性別が男で石を握ってる 角田古錐 2015/09/24
-
【感想】ササキサンを軽くあやしてから眠る 榊陽子 2014/08/11
-
【感想】封印の祠の中で叫んでる 一帆 2015/01/08
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳感想