【感想】髪洗ふシャワーカーテン隔て尿る 榮猿丸
- 2014/10/12
- 23:00
髪洗ふシャワーカーテン隔て尿る 榮猿丸
【視覚の死角】
ふだんみえている場所、みえていること、みえすぎている場所が〈みえない〉ことによって逆に浮かび上がってくる場所=抒情があるのではないかとおもっていて、たとえば猿丸さんのこの句も「髪洗ふ」と「尿る」という同時多発の別々の行為が「シャワーカーテン」によって「隔て」られることにより、相互的に〈死角〉となることにより、相互干渉しつつあるあいだだけの一時的な〈抒情〉になっているのではないか、とおもうんです。
たとえばほかに猿丸さんの
朝起きてTシャツ着るやTシャツ脱ぎ 榮猿丸
おほごゑにおほごゑかへす襖かな 〃
グレープフルーツジュース氷もグレープフルーツジュース 〃
という句があるんですが、「着るTシャツ」と「(脱いだ)Tシャツ」の同時多発性からの自分の仕分け(部屋着とおしゃれ着)という感覚による隔たりからの相互干渉する抒情、「おほごゑ」と「おほごゑ」の同時多発性からの「襖」を隔てての相互干渉内一時的抒情、「グレープフルーツジュース」と「グレープフルーツジュース(の氷)」が同時多発グレープフルーツジュースとしてあるときの液体と固体の状態変化としての隔たりによる相互干渉内一時的抒情がここにはみられるようにおもいます。
たとえば、故郷が〈喪われ〉たときに故郷に抒情がたちあらわれてきてしまうというよくある近代的な構図をかんがえたときに、ここにはそれが故郷のような〈雄大〉な文化装置でなくとも、ユニットバスのような場所でさえ、一時的に喪われる段取り=相互干渉内一時的抒情さえあれば、〈抒情〉はわきおこすことができるんだという現代の文脈からの抒情のとらえかえしがあるともいうことができるのかなとおもったりもします。
〈みえる/た〉から抒情になるのではなく、〈みえない〉ことが抒情になる。
というよりも、抒情はどこかに所与のものとしてあたえられるのではなく、〈みえない〉という運動態のなかで現象する。だから、抒情が所与化せず、もっといえば世界中のつまさきからゆびさきまで構造さえ組んであげれば抒情とはどのようにも生成することのできるものである、という抒情への距離感。
そういった〈ない)を通した構造的抒情を猿丸さんの句を通してかんがえてみました。
ゴダール黒縁眼鏡クロサワ黒眼鏡 榮猿丸
【視覚の死角】
ふだんみえている場所、みえていること、みえすぎている場所が〈みえない〉ことによって逆に浮かび上がってくる場所=抒情があるのではないかとおもっていて、たとえば猿丸さんのこの句も「髪洗ふ」と「尿る」という同時多発の別々の行為が「シャワーカーテン」によって「隔て」られることにより、相互的に〈死角〉となることにより、相互干渉しつつあるあいだだけの一時的な〈抒情〉になっているのではないか、とおもうんです。
たとえばほかに猿丸さんの
朝起きてTシャツ着るやTシャツ脱ぎ 榮猿丸
おほごゑにおほごゑかへす襖かな 〃
グレープフルーツジュース氷もグレープフルーツジュース 〃
という句があるんですが、「着るTシャツ」と「(脱いだ)Tシャツ」の同時多発性からの自分の仕分け(部屋着とおしゃれ着)という感覚による隔たりからの相互干渉する抒情、「おほごゑ」と「おほごゑ」の同時多発性からの「襖」を隔てての相互干渉内一時的抒情、「グレープフルーツジュース」と「グレープフルーツジュース(の氷)」が同時多発グレープフルーツジュースとしてあるときの液体と固体の状態変化としての隔たりによる相互干渉内一時的抒情がここにはみられるようにおもいます。
たとえば、故郷が〈喪われ〉たときに故郷に抒情がたちあらわれてきてしまうというよくある近代的な構図をかんがえたときに、ここにはそれが故郷のような〈雄大〉な文化装置でなくとも、ユニットバスのような場所でさえ、一時的に喪われる段取り=相互干渉内一時的抒情さえあれば、〈抒情〉はわきおこすことができるんだという現代の文脈からの抒情のとらえかえしがあるともいうことができるのかなとおもったりもします。
〈みえる/た〉から抒情になるのではなく、〈みえない〉ことが抒情になる。
というよりも、抒情はどこかに所与のものとしてあたえられるのではなく、〈みえない〉という運動態のなかで現象する。だから、抒情が所与化せず、もっといえば世界中のつまさきからゆびさきまで構造さえ組んであげれば抒情とはどのようにも生成することのできるものである、という抒情への距離感。
そういった〈ない)を通した構造的抒情を猿丸さんの句を通してかんがえてみました。
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