【感想】ISBN4-00-008922-6の顔、パリに 高山れおな
- 2014/10/14
- 12:00
ISBN4-00-008922-6の顔、パリに 高山れおな
【パイクとチャーリー・ブラウンと猫】
この句の書誌番号からたどる本の内実からの考察は、『週刊俳句』に福田若之さんの「幻滅とその後 高山れおな『俳諧曾我』を読む」があります。
ここで私が注目してみたいのは、ISBNが〈俳句〉として成立してしまうという事態です。
『ピーナッツ』にこんな回があります。
シュローダーに「本を読んでくれ」と頼まれたチャーリー・ブラウンは了解し、〈本〉をちゃんと読んであげるのです。出版社や本の製作者をめぐる書誌情報を。
高山さんの句と、チャーリー・ブラウンの行為は、すこし共振しているようにもおもいます。
なにが、共振しているのか。
それは、物語の〈外部〉を物語化する視線です。
物語の〈外部〉としての非物語を物語化する(〈定型〉におとしこむ、もしくは朗読としてモノ・ガタル)ことにより、そこには物語が設けていたはずの、物語をめぐる家と外の位階が溶解していきます。
そしてこの物語の磁場がもうけていたはずの位階を溶解させる視線こそが、そもそもの〈写生〉特有の視線と似通っているのではないかともおもうのです。
〈写生〉とは、レトリックなどの共同体的な記憶=ジャンルにたよらずに〈みたまま・を・かたる〉行為です。
〈写生〉的=俳文的といわれる、夏目漱石『吾輩は猫である』においても〈猫〉はにんげんのジャンルを横領しつつも無化することによって〈みたまま・を・かたる〉行為をつづけ、ジャンル=名前を背負うことをさいごまで拒絶しつづけます。
しかし名前を背負うことを拒絶しつづけた猫は、どのジャンルにも回収されることなく、ビールの泡のなかでジャンル的溺死をとげます。
固有名の拒否。本のタイトルの拒否。生命=姓名の途絶。
明治の猫と、高山さんの句のISBNと、チャーリー・ブラウンの朗読は、固有名の拒絶というふしぎなラインでつながっているようにもおもいます。
そしてその固有名の溶解するあわいという場所に、〈写生〉のふしぎな視線があるのではないかとおもったりもしています。
「これはパイクではない」とパイクかな 高山れおな
【パイクとチャーリー・ブラウンと猫】
この句の書誌番号からたどる本の内実からの考察は、『週刊俳句』に福田若之さんの「幻滅とその後 高山れおな『俳諧曾我』を読む」があります。
ここで私が注目してみたいのは、ISBNが〈俳句〉として成立してしまうという事態です。
『ピーナッツ』にこんな回があります。
シュローダーに「本を読んでくれ」と頼まれたチャーリー・ブラウンは了解し、〈本〉をちゃんと読んであげるのです。出版社や本の製作者をめぐる書誌情報を。
高山さんの句と、チャーリー・ブラウンの行為は、すこし共振しているようにもおもいます。
なにが、共振しているのか。
それは、物語の〈外部〉を物語化する視線です。
物語の〈外部〉としての非物語を物語化する(〈定型〉におとしこむ、もしくは朗読としてモノ・ガタル)ことにより、そこには物語が設けていたはずの、物語をめぐる家と外の位階が溶解していきます。
そしてこの物語の磁場がもうけていたはずの位階を溶解させる視線こそが、そもそもの〈写生〉特有の視線と似通っているのではないかともおもうのです。
〈写生〉とは、レトリックなどの共同体的な記憶=ジャンルにたよらずに〈みたまま・を・かたる〉行為です。
〈写生〉的=俳文的といわれる、夏目漱石『吾輩は猫である』においても〈猫〉はにんげんのジャンルを横領しつつも無化することによって〈みたまま・を・かたる〉行為をつづけ、ジャンル=名前を背負うことをさいごまで拒絶しつづけます。
しかし名前を背負うことを拒絶しつづけた猫は、どのジャンルにも回収されることなく、ビールの泡のなかでジャンル的溺死をとげます。
固有名の拒否。本のタイトルの拒否。生命=姓名の途絶。
明治の猫と、高山さんの句のISBNと、チャーリー・ブラウンの朗読は、固有名の拒絶というふしぎなラインでつながっているようにもおもいます。
そしてその固有名の溶解するあわいという場所に、〈写生〉のふしぎな視線があるのではないかとおもったりもしています。
「これはパイクではない」とパイクかな 高山れおな
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の俳句感想