【感想】装幀から読む斉藤斎藤『渡辺のわたし』-白の強度-
- 2014/10/16
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斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』の装幀が真っ白=まっさらなのはけっこう意味が深いことなのではないかと思っている。
たとえば太宰治の『晩年』の初版も真っ白=まっさらなのだが、そこには読み手が読みの枠組みをつくってこの短篇集に取り組んでほしいというような意味合いがあるとわたしはおもう。
つまり、いまこの本を読む〈あなた〉が〈晩年のわたし〉だとしたら、どのようにあなたは意味の枠組みをつくりながらこの本を読んでいくのかと。
『渡辺のわたし』も、めいめいが「渡辺の〈わたし〉」になることによって読みの枠組みをおのおのでつくりつつ、歌集を読んでいくということが要請されているのではないかとおもったりもする。
『渡辺のわたし』に「あとがき」がないのも象徴的で、そういった副次的な意味生成が排除されている。
だからある意味、この歌集においては〈わたし〉とタイトルに銘打たれながらも〈わたし〉を形成するのは、短歌が読み手と意味的に交感しあうさなかに明滅する〈わたし〉としてあらわれる。
そこには絶対的な〈わたし〉がなく、つねにそのつど短歌を読むことによってあらわれる〈わたし〉が現象することになる。
しかしそれは「渡辺の」という固定化された〈わたし〉である。だからこそ、読み手はその現象する〈わたし〉とつねに葛藤しなければならない。
それは〈わたしのわたし〉でも、〈あなたのわたし〉でも、〈斉藤のわたし〉でも、ない。
渡辺の、わたし。
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