【感想】もう追うな 回遊槽に銀色のさかなは廻りつづけていても 錦見映理子
- 2014/10/17
- 18:00
もう追うな 回遊槽に銀色のさかなは廻りつづけていても 錦見映理子
【〈忠告〉の短歌化】
水族館の回遊槽をみているとわかるんですが、〈どこにもいけない〉んだけれども、でも回遊しつづけることによって〈どこにもいけない〉場所を〈どこにでもいけるかもしれない〉場所として遅延しつづけているのが回遊魚だとおもうんです。
だからこの歌から読みとれるのは、「追う」という行為がそういった〈どこにもいけない〉場所なのに〈どこにだっていけるかもしれない〉と遅延しつづけている状態としてあらわれているとおもうんです。
この歌のおもしろさのひとつに、〈忠告〉のギャップというものがあるのではないかとおもうんです。
「もう追うな」っていうのは、「追うな」という〈忠告〉です。そこに「~していても」という仮定条件が付加されています。
「もう追うな」といったストレートな〈忠告〉の後に、さらに仮定条件として〈隠喩〉の〈忠告〉が付加されること。
ここがこの短歌のポイントなのではないかとおもっています。
〈隠喩〉の機能というのをあらためて考えてみた場合、記号内容としては異なるもの(「りんご」と「ほっぺ」の意味は違う)を記号表現の同一化を軸にまとめあげる(どちらも〈赤い〉と表現できるので〈赤い〉を軸に統廃合する)のが〈隠喩〉だとおもうんです。
だから〈隠喩〉をわざわざ使うときには、それだけ思考のプロセスも遠回りしなければならず、それだけ事柄の深度を端的にあらわすこともできながらも、〈ひたむきさ〉や〈直截さ〉がうしなわれていくリスクもある。
かんたんにいえば、〈忠告〉にレトリックが入ってしまうことによって、〈忠告〉の迫真性が損なわれる危うさがある。
でも、この〈忠告〉がビビッドに響く場合がある。
それは、短歌が短歌を短歌で説得しようとするときです。
短歌が短歌を短歌で説得しようとするということは、短歌という形式で、短歌をうたう語り手が短歌のモードで生きている聴き手に語りかけるときです。
だからわたしはこの歌は、「もう追うな」というのは、語り手が語り手をみずから聴き手化し、〈忠告〉しているのではないかとおもうのです。
しかしそれが〈短歌〉の形態をとった以上、短歌のモード生きるひとには「もう追うな」がビビッドに響いていく。
この歌にはそうした短歌をとおした〈忠告〉の効果的なありようが効果的にあらわれているのではないかとおもいます。
右脚を何度も上げて駅ビルのヨガ教室に目を閉じている 錦見映理子
【〈忠告〉の短歌化】
水族館の回遊槽をみているとわかるんですが、〈どこにもいけない〉んだけれども、でも回遊しつづけることによって〈どこにもいけない〉場所を〈どこにでもいけるかもしれない〉場所として遅延しつづけているのが回遊魚だとおもうんです。
だからこの歌から読みとれるのは、「追う」という行為がそういった〈どこにもいけない〉場所なのに〈どこにだっていけるかもしれない〉と遅延しつづけている状態としてあらわれているとおもうんです。
この歌のおもしろさのひとつに、〈忠告〉のギャップというものがあるのではないかとおもうんです。
「もう追うな」っていうのは、「追うな」という〈忠告〉です。そこに「~していても」という仮定条件が付加されています。
「もう追うな」といったストレートな〈忠告〉の後に、さらに仮定条件として〈隠喩〉の〈忠告〉が付加されること。
ここがこの短歌のポイントなのではないかとおもっています。
〈隠喩〉の機能というのをあらためて考えてみた場合、記号内容としては異なるもの(「りんご」と「ほっぺ」の意味は違う)を記号表現の同一化を軸にまとめあげる(どちらも〈赤い〉と表現できるので〈赤い〉を軸に統廃合する)のが〈隠喩〉だとおもうんです。
だから〈隠喩〉をわざわざ使うときには、それだけ思考のプロセスも遠回りしなければならず、それだけ事柄の深度を端的にあらわすこともできながらも、〈ひたむきさ〉や〈直截さ〉がうしなわれていくリスクもある。
かんたんにいえば、〈忠告〉にレトリックが入ってしまうことによって、〈忠告〉の迫真性が損なわれる危うさがある。
でも、この〈忠告〉がビビッドに響く場合がある。
それは、短歌が短歌を短歌で説得しようとするときです。
短歌が短歌を短歌で説得しようとするということは、短歌という形式で、短歌をうたう語り手が短歌のモードで生きている聴き手に語りかけるときです。
だからわたしはこの歌は、「もう追うな」というのは、語り手が語り手をみずから聴き手化し、〈忠告〉しているのではないかとおもうのです。
しかしそれが〈短歌〉の形態をとった以上、短歌のモード生きるひとには「もう追うな」がビビッドに響いていく。
この歌にはそうした短歌をとおした〈忠告〉の効果的なありようが効果的にあらわれているのではないかとおもいます。
右脚を何度も上げて駅ビルのヨガ教室に目を閉じている 錦見映理子
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