【感想】エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン 長嶋有
- 2014/10/19
- 13:48
エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン 長嶋有
夏シャツや大きな本は置いて読む 〃
【アウトドア俳句とインドア俳句】
〈室内俳句〉というカテゴリーの俳句があるのかなと勝手に思っていて、たとえば正岡子規の場合は病んでいたせいでやむなく〈室内俳句〉になったのかなとも思うんですね。だから「いくたびも雪の深さを尋ねけり」と〈外〉への志向と〈室内〉にいることの屈託がある。
でもそんな子規の句からしてみると、この長嶋さんの句ではまるで〈室内〉が〈外〉そのものであるかのように語り手がのびのびと〈室内〉を使用している様子がうかがえるとおもうんです。
ここには芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」のような偶発性はなくて、「エアコン大好き」で「部屋に飾るリボン」というふうに、室内における〈必然性〉をよりデコレートして楽しむ。「雪の深さ」や「蛙飛び込む」とは無縁の世界のインドア俳句的愉楽があるのではないかとおもうんです。
「夏シャツ」という季語も決して気候にあわせて〈外〉に合わせた組み立てになってゆくのではなくて、「大きな本は置いて読む」とやはり部屋か図書館などの室内を志向する句になってる。
ふたつの句の「二人で部屋に飾るリボン」や「大きな本は置いて読む」が象徴的だとおもうんですが、〈飾る〉という行為も〈置いて読む〉という行為も、すくなくともこれからある一定の時間を永続してここに居続けるのだと選択する/決意するという行為です。
だから〈室内俳句〉というのは、季節を〈室内〉に引き込みながら、〈外〉でなく〈室内〉で詠むことを選んだ語り手たちが、あおむけになったまま〈雪の深さ〉をかんがえている正岡子規のそんなに遠くはない系譜のもとで、いや〈雪の深さ〉は実は〈室内〉にあったんだよ、たずねる必要なんかなかったんだ、という句の集まりなのではないかとおもうのです。
もし一般的に、〈みて・よむ〉のが短詩であるならば、取り巻く環境=ハードウェアの変遷からソフトウェアがどんなふうにアップデートされていくのか、そこにはなにが残りながらも、なにが少しずつかたちを変えていくのか。
そんなことをときどき図書館の机につっぷしながら、かんがえたりしています。あ、
うつぶせで開くノートの先に海 長嶋有
夏シャツや大きな本は置いて読む 〃
【アウトドア俳句とインドア俳句】
〈室内俳句〉というカテゴリーの俳句があるのかなと勝手に思っていて、たとえば正岡子規の場合は病んでいたせいでやむなく〈室内俳句〉になったのかなとも思うんですね。だから「いくたびも雪の深さを尋ねけり」と〈外〉への志向と〈室内〉にいることの屈託がある。
でもそんな子規の句からしてみると、この長嶋さんの句ではまるで〈室内〉が〈外〉そのものであるかのように語り手がのびのびと〈室内〉を使用している様子がうかがえるとおもうんです。
ここには芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」のような偶発性はなくて、「エアコン大好き」で「部屋に飾るリボン」というふうに、室内における〈必然性〉をよりデコレートして楽しむ。「雪の深さ」や「蛙飛び込む」とは無縁の世界のインドア俳句的愉楽があるのではないかとおもうんです。
「夏シャツ」という季語も決して気候にあわせて〈外〉に合わせた組み立てになってゆくのではなくて、「大きな本は置いて読む」とやはり部屋か図書館などの室内を志向する句になってる。
ふたつの句の「二人で部屋に飾るリボン」や「大きな本は置いて読む」が象徴的だとおもうんですが、〈飾る〉という行為も〈置いて読む〉という行為も、すくなくともこれからある一定の時間を永続してここに居続けるのだと選択する/決意するという行為です。
だから〈室内俳句〉というのは、季節を〈室内〉に引き込みながら、〈外〉でなく〈室内〉で詠むことを選んだ語り手たちが、あおむけになったまま〈雪の深さ〉をかんがえている正岡子規のそんなに遠くはない系譜のもとで、いや〈雪の深さ〉は実は〈室内〉にあったんだよ、たずねる必要なんかなかったんだ、という句の集まりなのではないかとおもうのです。
もし一般的に、〈みて・よむ〉のが短詩であるならば、取り巻く環境=ハードウェアの変遷からソフトウェアがどんなふうにアップデートされていくのか、そこにはなにが残りながらも、なにが少しずつかたちを変えていくのか。
そんなことをときどき図書館の机につっぷしながら、かんがえたりしています。あ、
うつぶせで開くノートの先に海 長嶋有
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の俳句感想