【感想】マフラーの匂ひの会話してをりぬ 佐藤文香
- 2014/10/20
- 12:00
マフラーの匂ひの会話してをりぬ 佐藤文香
【すべての〈わたし〉にマフラーを巻かす】
短詩っていうのは、自分の〈場所〉が〈いま・ここ〉にしかないことを再帰的に確認し記述することなのではないか、ということをときどき思っていて、とくにこの佐藤さんの句にそのことがよく現れているのではないかとおもいます。
この句には「会話」ということばがありますが、ここでこの句の語り手が確認しているのは、「会話」ということばを交わすコミュニケーションのなかにおいて、「マフラーの匂ひ」を通してしか発話することができないマフラーを巻いている語り手自身です。
どれだけ会話がはずみ、飛躍しようとも、ことばの意味の加速し、きらきらときらめいても、このマフラーを巻いていまあなたとはなしている〈わたし〉からは逃れようがない。
そのことを、もういちど〈俳句〉としてのことばに組織化しつつも、その〈俳句〉として組織化している〈わたし〉にもういちど再び帰ってゆく、再帰的存在としての〈わたし〉。
そうした〈わたし〉の限定=場所をみいだすことが短詩なのではないかとおもうのです。
たとえば、この佐藤さんの俳句におけるこうした〈わたし〉の〈語る場所〉の限定化を短歌であらわせば、斉藤さんのつぎの歌のようになるのではないか。
履きぐせのすっかりついたスリッパをみぎひだり逆にピザが来ている 斉藤斎藤
ここでは「ピザが来ている」ために「スリッパをみぎひだり逆に」履いている語り手あるいは語り手がみている誰かがいる。
これも、再帰的に〈わたし〉の場所を確認し記述しているんだとおもうんです。
佐藤さんの句でいえば「会話」がここでは「ピザが来ている」というピザ屋がきたことによる相互コミュニケーションになっている。
ふたつの短詩からわかるのは、〈わたし〉に外から話しかけてくるもの、もしくは働きかけてくるものがあった場合にそのときに限定的な〈わたし〉の場所が縁取られる。
その縁取られた瞬間にわたしは、わたしが、わたしとして、そのわたしからしか発話できないことを、知る。
そんなふうに、わたしは、わたしの外から働きかけられつつも、その外を迂回するかたちで、もういちど、わたしにかえっていく。
わたしはそのような再帰的わたしに短詩のメカニズムの一端があるのではないかとわたしはわたしがおもっています。
これは雪のはじめのひとつ靴で受け 上田信治
【すべての〈わたし〉にマフラーを巻かす】
短詩っていうのは、自分の〈場所〉が〈いま・ここ〉にしかないことを再帰的に確認し記述することなのではないか、ということをときどき思っていて、とくにこの佐藤さんの句にそのことがよく現れているのではないかとおもいます。
この句には「会話」ということばがありますが、ここでこの句の語り手が確認しているのは、「会話」ということばを交わすコミュニケーションのなかにおいて、「マフラーの匂ひ」を通してしか発話することができないマフラーを巻いている語り手自身です。
どれだけ会話がはずみ、飛躍しようとも、ことばの意味の加速し、きらきらときらめいても、このマフラーを巻いていまあなたとはなしている〈わたし〉からは逃れようがない。
そのことを、もういちど〈俳句〉としてのことばに組織化しつつも、その〈俳句〉として組織化している〈わたし〉にもういちど再び帰ってゆく、再帰的存在としての〈わたし〉。
そうした〈わたし〉の限定=場所をみいだすことが短詩なのではないかとおもうのです。
たとえば、この佐藤さんの俳句におけるこうした〈わたし〉の〈語る場所〉の限定化を短歌であらわせば、斉藤さんのつぎの歌のようになるのではないか。
履きぐせのすっかりついたスリッパをみぎひだり逆にピザが来ている 斉藤斎藤
ここでは「ピザが来ている」ために「スリッパをみぎひだり逆に」履いている語り手あるいは語り手がみている誰かがいる。
これも、再帰的に〈わたし〉の場所を確認し記述しているんだとおもうんです。
佐藤さんの句でいえば「会話」がここでは「ピザが来ている」というピザ屋がきたことによる相互コミュニケーションになっている。
ふたつの短詩からわかるのは、〈わたし〉に外から話しかけてくるもの、もしくは働きかけてくるものがあった場合にそのときに限定的な〈わたし〉の場所が縁取られる。
その縁取られた瞬間にわたしは、わたしが、わたしとして、そのわたしからしか発話できないことを、知る。
そんなふうに、わたしは、わたしの外から働きかけられつつも、その外を迂回するかたちで、もういちど、わたしにかえっていく。
わたしはそのような再帰的わたしに短詩のメカニズムの一端があるのではないかとわたしはわたしがおもっています。
ひとりの人間(男だな)が、歩いたり寝そべったりして、自分の周りにあるものと、「俳句的関係」を持とうとしている。もちろん、その「俳句的関係」が全部成功するわけではない。けれども、その姿勢は一定で、事物へのまなざしがたしかに一定なのだ。 西原天気「 信治さんの「団地」50句」
これは雪のはじめのひとつ靴で受け 上田信治
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